穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

75年物のお味は、D.フランシス「重賞」

2010-02-14 21:30:02 | ミステリー書評

大変よろしい。1975年前後が脂ののりきっていたころのようだ。競馬サークルの話が一番安心して読める。本編は馬主と調教師の話だ。

調教師が馬主の知らないうちに出走馬をすり替える。それも同じ馬でのべつ幕なしにやる、という馬券愛好者にとっては死活問題のおそろしいお話。

しかけは馬のすり替えである。この間大井競馬で出走直前に違う馬が見つかったというニュースがあった。大したフォローもなかったところを見ると単純なうっかりミスということで処理されたようだ。

小沢一郎言葉なら「形式的ミス」だ。

この馬の取り換えが軸になっておる。しかも取り換え三つ巴というか三連単である。イギリス屈指の騎手経験者である作者があり得る話として書いているわけで、馬の確認方法が現代でもそう変わっているとも思わないので、日本でも大いにあり得るのかな、と思ってしまう。

これがあり得たらテーヘンなことだよ。まさか生まれた時に、というか最初に出走する時にDNAを採取保存されて、各出走ごとに血液を採取してDNA検査なんか出来るわけもなかろう、非現実的で。

あるいはユニークな番号を記録してあるマイクロチップを馬の皮膚の下に埋め込んでしまうか。実用的かな。とにかくそんなことをしていることも聞かない。

これは、アナタ、来週から馬券戦術は見直しだよ。

これまでに何回かラストが甘いと書いてきたが、この作品はラストでも手を抜いていない。グーである。

このハヤカワミステリー文庫には解説はないが、訳者あとがきがある。著者の経歴が紹介してある。それによるとD.Fは第二次大戦中パイロットだったらしい。かれは妻と一緒に騎手専用のエアタクシーの運転手(操縦士)をしていたこともあるという。

それで思い出したのが、帝国陸軍騎兵中将からかって聞いた話だ。

昭和になって軍隊の機械化が進んで騎兵の役割が小さくなった。騎兵の役割は戦車部隊と航空部隊にとってかわられたわけである。

なかでも航空機パイロットには馬乗りは向いているそうだ。なんでも手綱の持ち方と操縦桿を握る感覚とは同じだそうだ。陸軍省編纂の「騎兵操典」には手綱は掌に鶏卵を抱くようにせよ、とあったという。アナログ時代の航空機とくに戦闘機ではそうであったらしい。

ジョイ・スティック(隠語で操縦桿のことを昔堅気のパイロットはこう呼ぶそうだ)も手綱さばきと通じるところがあるのだろう。

遊び人はいちもつをジョイスティックというらしいがね。

もっとも今はすべてデジタル制御だから話は違うだろうが。最近のトヨタ自動車でもデジタル制御だからね、今回のトヨタのリコール騒ぎの本質はそこだろう。いみじくも常務がフィーリングの違和感といってひんしゅくをかったがね。あれはプロやテスト・ドライバーには通用する理屈だが、たしかに一般の客には通用しない弁明だろうね。

卵を固く握ればつぶれてしまう。ゆるすぎると卵が落ちて割れてしまう。卵の代わりにヒヨコを持つように手綱を持てという格言もあったらしい。固く握ればヒヨコは窒息して死んでしまう。ゆるければてのひらから落ちて死んでしまう。

D.Fはいい方向にリストラしたわけだ。

あとさきになったが、この本の151ページに馬のパスポートと言うのが出てくる。内容が紹介されているがこれじゃ場合によってはすり替え大いに可能のようだ。