72:四谷はどうかしら
と洋美は言ったのである。タワーマンション脱出計画はようやく二件の物件に絞られたのである。いずれも四谷の物件である。一件は丘の上のお屋敷町に建つ三階建てで、模造レンガの褐色の壁がいかにも高級感を醸し出している。外から見ると住居を仕切る隔壁など見当たらない。ワンフロア一住居のように見える。
欠点は、その広さである。百三十平米というのは、洋美ご自慢のマリーアントワネット風の天蓋付きベッドの容器としてはふさわしいのだが。価格も二億円近いというので、いくら彼女がいまをときめくキャリアウーマンと言ってもローンも組めない。賃貸にしてくれないかと聞いてみたら家賃が百五十万円ならと所有者は言っているそうである。第九が「あきらめろ」などというと彼女が逆上するから、しばらくは彼女の夢見物件として泳がせているのである。
彼女の第一候補なのである。一応不動産会社を通して引き合いに出して交渉を引き延ばしている。交渉を引き延ばして売り主の焦りを誘って値引きを引き出そうというのが彼女の作戦なのである。うまく行くはずもない。しかし、あまり高すぎるので他に引き合いもないらしく不動産会社もなにも言ってこない。
もう一つの候補は交通の激しい大通りに面したマンションの五階の部屋である。元の三業地だということで、付近は商店ばかりである。マンションの一階はコンビニになっていて利便性は悪くないと第九は思うのであった。
翌日ダウンタウンに行ったときに、JHが引っ越しは決まりましたかと言われたので二件の物件があるが、と話した。
「一つは高すぎて現実的じゃないですがね」
「丘の上だか坂の上だとか言うとお岩稲荷の上かしら」とママが聞いた。
「さあ、どうですかね」とお岩稲荷を知らない第九は答えた。
「四谷というからには谷が四つあったんな」とEHが思いついたようにつぶやいた。
「今でもあるでしょう」とCC
「するっていうと、丘も四つあるわけだな」と大発見をしたようにEHが発した。
そうすると、引っ越しは急がないわけだ。腰を据えてさがすんだな、とJHが言った。
「しかしねえ、急いだほうがいいかもしれないな」とCCが思い出したように話に割り込んできた。「武蔵小杉の浸水騒ぎもあるけど、停電は別に台風のためばかりじゃないからな。いわゆるブラックアウトなんて原因不明の都市全域の大停電もありうるからな」
「いつかニューヨークでありましたね」
「タワーマンションではその他にいろいろ聞きますよ。深夜寝込んでいたところを警備員に踏み込まれた奴がいましたっけ。夏目さんのマンションは江東区でしたね。風はどうですか」
「ビル風っていうやつ」と長南さんが聞いた。
「海が近いせいかしょっちゅう強風が吹き荒れていますね。都心に出ると風なんか全然吹いていない日でも風速二十メートル以上の強風が一日中吹きまくっている日があります。それはビル風なんて生易しいものではない。私の知り合いの住民なんか自分のマンションを颱風荘としゃれて言っているのがいますよ」
「だけど、それと警備員に襲われる話とどうつながるの」と長南さんは不思議そうな顔をした。若き女性哲学徒はあくまでも納得のいく説明を求めるのである。
「それですよ」と一座はCCの説明を求めるように彼の顔を見た。