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観客席で思ったこと ~200文字限定のスポーツコラム~
 



先日、久しぶりに、日本サッカー史研究会の月例会に参加し、東京新聞の財徳健治さんの話を聞いた。

その中で、主宰の牛木素吉郎氏が「ビバ!スポーツ時評」で書かれているように「ワールドカップが日本のマスコミで認知されるようになった『転換点』は、1990年のイタリアW杯で、スーパースターのマラドーナの影響が大きかったのでは?」という話があった。確かに、一理あるが、それだけかな、と思ったので、つらつらと自分なりに考えてみた。

財徳さんが、1990年イタリアW杯を「転換点」とした理由は、本大会の取材申請が飛躍的に増えたためだった。本大会に出場していない日本サッカー協会への取材パスの割り当てが増えるわけではないので、それまでW杯取材の常連だった読売新聞の牛木氏やフリーランスの後藤健生氏らは、そのあおりを受けて取材パスを取得するのに苦労したらしい。

マスメディアとW杯の関連でいえば、初めて日本人記者が取材申請をして報道した大会であり、テレビ東京がほぼ全試合を録画中継した1970年メキシコ大会、ドーハの悲劇があった1994年米国大会、日本が初出場した1998年フランス大会のほうが影響が大きかったと思う。ただし、これらは一般大衆への影響であり、「マスコミの認知」という視点では、「マスコミの取材意向が急騰した」1990年イタリア大会を転換点とすることは、ユニークだし、異議はない。

では、なぜ、多くのマスコミがイタリアW杯を取材しようとしたのだろうか?

サッカーマガジンのご意見番、国吉氏が言うように、1986年メキシコ大会で優勝したアルゼンチン代表の中心であり、イングランド戦で伝説の5人抜きゴールを決めたディエゴ・マラドーナの存在は大きかった。W杯優勝後には、シューズ契約をしていたプーマだけではなく、大衆向けの缶コーヒーや企業向けのコピー機のCMにも登場した。マラドーナをきっかけにW杯を知り、W杯のすごさ、すばらしさを理解したことで、次のイタリア大会を取材したくなる気持ちは十分に理解できる。しかし、マラドーナだけだろうか?

1980年代後半の日本は、まさに「バブル」の絶頂期だった。その恩恵もあり、スポーツ観戦のために海外まで出かけるファンが増えた時代だった。サッカーだけでなく、アイルトン・セナが人気だったF1、マイケル・ジョーダンのNBA、本格的にテレビ中継が始まったウインブルドン・テニス、さらには、ゴルフのメジャー大会など。そして、そういう熱烈なファン行動が雑誌や新聞で数多く取り上げられた。作家の村上龍氏が、世界のメジャーなスポーツ大会を観戦し、その模様を雑誌に連載していたのが、いかにもこの時代を象徴していたように思う。

イタリアW杯はこの延長線上にあり、W杯を観戦するサッカー・ファンも格段に増えた大会だった。マスコミがこの流れに乗り遅れないようにしようとしたのは当然だろう。さらに、バブルのために、取材、出張にかけられる費用が今よりも多かっただろうことは容易に推測できる。

そして、文字どおりイタリアW杯は、「イタリア」で開催される。1980年代後半のイタリア・サッカーには、マラドーナやプラティニ、それに続いて、オランダや西ドイツのスタープレーヤーらが集まっていて、欧州で最も華やかだった。サッカーを別としても、当時、流行っていた「イタ飯」の本場であり(あたりまえだが)、ファッション、ワイン、美術、建造物など、観光地として魅力的なのは今も変わらない。記者の食指が動くのも当然だろう。

というわけで、「マラドーナ」「バブル経済」「イタリア」の3つの要素に後押しされて、日本のマスコミがイタリアW杯に強い関心を持ち、「転換点」であり、また、その後の日本のサッカーブームの「予兆」とも言えるような動きが生まれたのだと考えた。

そして、何を隠そう、この3つの要素に後押しされたのは、ぼく自身も一緒であり、1990年の夏、イタリアW杯観戦ツアーに参加したことが、ぼくにとっての「転換点」にもなったのである。



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