昨日のブログ開設4周年に多くの皆様のご来訪ありがとうございました。
第1回目の投稿した浜松城の写真をご紹介した後、もう少し浜松城をご紹介すればよかったと気づき、本日もう一度、浜松城を紹介させていただきます。
「浜松城」は、徳川家康が、始め遠江見付(現磐田市)に築城しようとしましたが、諸事情により、曳馬(ひくま:現浜松)城を根拠地として造営が始まりました。元亀元年(1570)に入城しこの時浜松と改めたといわれています。
現在の復元天守閣は市民の寄付などで昭和33年に再建され、博物館として親しまれています。浜松城は出世城といわれますが、その由縁は徳川家康が将軍になったことのほか、浜松藩政300年の間に25代の城主が誕生し、老中に6人、大阪城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人が登用され、「はま松は、出世城なり、初松魚」(松島十湖)の句も残されているからです。
また、城の石垣は特徴ある野面積み(のずらずみ)で、自然石を上下に組み合わせて積み上げ表面に隙間があり、一見崩れそうですが、奥が深く内側に小石や砂利を詰めてあるため、水はけが良く堅固です。
下画像左から、徳川家康像、野面積みの石垣、南正面からの天守閣。小画像が緑の中に映える浜松城天守閣です。
徳川家康像 野面積み石垣と天守 南正面の天守
第1回目の投稿した浜松城の写真をご紹介した後、もう少し浜松城をご紹介すればよかったと気づき、本日もう一度、浜松城を紹介させていただきます。
「浜松城」は、徳川家康が、始め遠江見付(現磐田市)に築城しようとしましたが、諸事情により、曳馬(ひくま:現浜松)城を根拠地として造営が始まりました。元亀元年(1570)に入城しこの時浜松と改めたといわれています。
現在の復元天守閣は市民の寄付などで昭和33年に再建され、博物館として親しまれています。浜松城は出世城といわれますが、その由縁は徳川家康が将軍になったことのほか、浜松藩政300年の間に25代の城主が誕生し、老中に6人、大阪城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人が登用され、「はま松は、出世城なり、初松魚」(松島十湖)の句も残されているからです。
また、城の石垣は特徴ある野面積み(のずらずみ)で、自然石を上下に組み合わせて積み上げ表面に隙間があり、一見崩れそうですが、奥が深く内側に小石や砂利を詰めてあるため、水はけが良く堅固です。
下画像左から、徳川家康像、野面積みの石垣、南正面からの天守閣。小画像が緑の中に映える浜松城天守閣です。



徳川家康像 野面積み石垣と天守 南正面の天守