気ままな趣味の散歩道

趣味にまつわる話題を、デジカメ画像などを活用し郷土の写真、菜園と園芸、郵趣、版画と年賀状などを紹介してまいります。

直政の新赴任地とその後。

2018-02-28 13:19:55 | 「おんな城主 直虎」

  昨年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の放送が終了し、井伊の赤備えで赤く染まっていた静岡県西部地方(浜松市など)も普段の風景に戻りつつあるような気がします。

    

        (井伊の赤備えと言われた所以の赤い鎧等)

 大河ドラマの放送の後のことになりますが、「おんな城主 直虎」が、後見した井伊直親の子の直政(幼少名は虎松万千代)は徳川家康に仕え徳川の四天王と言われているが、 直虎の没後、1590年家康が関東に入国した際に、家康に尽くした功で関東の知行割の際、箕輪藩12万石を井伊直政に与えられています。(箕輪藩は現・群馬県高崎市箕輪町)   

 直政の新赴任地でした。その箕輪城のある資料や写真を知人よりいただきましたので、 直虎亡き後の直政のその後の活躍した動向をご紹介します。 

         

              (箕輪城跡の石碑と本丸跡)

  箕輪城は現在天守等の建物はありませんが、平成10年からの発掘調査が行われ、郭馬出し西口の出入り口に、大きな門跡が確認され、現在立派な「郭馬出西虎口門」として平成28年に立派な門が復元されています。

    

       (再建された郭馬出西虎口門=カクウマダシニコグチモン)

   

                      (二の丸跡と本丸広場)

 

 

 赴任後直政は箕輪藩を盛り立て、八年間在任した後、家康は信州や越後への幹線道路の整備や関東北辺の守りを固めるなどの理由から直政を和田の地へ移しました。和田を高崎と改名し高崎城を築き初代藩主となっています。 

 その2年後(1601年)には直政は滋賀県の佐和山藩18万石の藩主(城主)となり、彦根藩の基礎を築いています。 

 そして、1602年2月1日、関ヶ原の戦いで大けがをしたことに因を発した直政は死亡しました。

 大河ドラマ「おんな城主 直虎」を1年間見たことで、直虎が後見した直政のその後の動向が気になるところですが、いい機会に勉強させていただきました。

 

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直虎紀行:佐鳴湖と太刀洗の池

2017-11-20 19:56:47 | 「おんな城主 直虎」

大河ドラマ「おんな城主 直虎」の11/19放送は悲しい場面が多かったですね。家康の正妻・瀬名(築山御前)が浜松へ向かう途中、佐鳴湖近くで殺害されたこと。家康の嫡男信康も今の天竜市の清瀧寺で自害など。

番組最後の「直虎紀行」で紹介されました。それに関連する画像が一部保存してありましたのでたどってみたいと思います。

浜松市の佐鳴湖。市内中心部から西(浜名湖方面)へ4~5Km向かった今は住宅地に囲まれた中にあります。周囲は8km位と言われております。以前は水質も悪くワースト記録を持ったほどでしたが今は改善されています。

またボートレースの漕艇場が設備されています。

   

     (佐鳴湖の風景)

そして、瀬名(築山御前)が殺害され、その刀についた血を洗った池が、現在の浜松医療センター近くにあった「太刀洗の池」といわれ、その記録を残す場所が保存されています。

   

 表示近くの土地です。今は池は確認できないとのことです。

   

かつての保存記録が表示されていました。右は浜松医療センターと史跡「太刀洗の池」の場所。

この場所に上の小画像ご案内の標識等があります。

同日の紀行のご紹介の中にあった地蔵院や信康公を供養するために建てられた清瀧寺の画像は持っていませんのであしからず。

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直虎紀行:諏訪原城跡

2017-10-30 16:39:47 | 「おんな城主 直虎」

大河ドラマ「おんな城主 直虎」の10月22日の放送では、万千代(のちの直政)が小姓に取り立てられ数々の働きの様子が放送されました。

そのドラマの放送終了後に紹介される「直虎紀行」では、今回は大井川の西にある島田市の諏訪原城跡が紹介されました。

この春、諏訪原城跡を訪れ、見学と少々カメラに収めてきましたのでこの機会に諏訪原城跡をご紹介します。

    

   ( 諏訪原城跡は牧の原台地の北端の茶畑の向こうに見ました。)

諏訪原城は、天正元年(1573)、武田勝頼が部下に命じ築城。城内に諏訪大明神を祀ったことから諏訪原城の名がついたといわれています。

諏訪原城は、駿河から遠江に入る要衝の地にあって、高天神城(掛川市)攻略のための陣城としての役割を担いました。

    

( かなり広い場所で、奥へ進むに連れ案内板とともに曲輪(くるわ)や堀が見えてきます。 

        

       堀とその向こうに二の曲輪中馬出跡が見えます。

   

                    (外堀りに近づいてみました。)

   

                (二の曲輪と外堀の一部)

         

( 二の曲輪の(林の)向こう(東側)に本曲輪があったとされています。(ここに城(本丸)があったと思われます)

天正3年(1575年)に家康によって攻め落とされ「牧野城」と改名。天正9年に高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡しこの城の必要性がなくなりました。その後家康が関東に移ったことから、天正18(1590)年頃廃城になったとのことです。

現在建物はありませんが、丸馬出が良好な形として残っていることから戦国時代の過程を理解する上で重要な遺跡として国の史跡に指定されています。

 以上城跡を回ってみました。推定の復元図(パンフレットより)がありましたので、帰宅後比べてみました。

       

         (諏訪原城の推定復元図です(パンフレットより)。)

※ 城の用語

 ◎曲輪(くるわ) =土塁や柵・堀などで囲まれた平坦な区域のこと。尾根や斜面などを造成して作ることもある。

 ◎丸馬出(まるうまだし) =武田流築城術の特徴で、虎口の前に設けられた三日月堀と平坦地がセットになった空間。防御するだけでなく、味方が出撃する場合の拠点にもなる。

 (共にパンフレットより)

  

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直虎紀行:設楽原の戦いと馬防柵

2017-10-23 17:05:52 | 「おんな城主 直虎」

 大河ドラマ「おんな城主 直虎」は佳境に入ってきました。

 10/22放送の第42話では、家康・信長連合軍と武田軍が5万の兵で戦った「長篠・設楽原の戦い」がありました。

 家康・信長連合軍は鉄砲隊と馬防柵により、当時最強ともいわれた武田軍の騎馬隊に勝利しました。

 そして、ドラマの放送終盤に紹介される直虎紀行の中に馬防柵と信玄塚がありましたが、今夏、虎松が鳳来寺へ預けられた放送の際、鳳来寺ともに、設楽原決戦場(馬防柵)を訪ねていましたのでその時の画像でもう一度ご紹介します。

 設楽原決戦場(馬防柵)は、新東名新城ICの西約1kmほどのところにあります。

   

 後ろは小高い山、手前は小さな川が流れており、この川に添って馬防柵が復元されていました。

     

 附近には案内板があり、合戦の絵図も表示されていました。(看板から50mほど先に馬防柵があります。)

   

   

 馬防柵の看板や、復元された馬防柵が新東名の方へ向かって伸びていました。

 もう一つドラマでは紹介がありました。「信玄塚」です。

戦いで敗れた武田軍は多くの犠牲者を出したとのことで、その戦死者を弔うために地元の人たちが供養のために建てたという信玄塚(大塚)が馬防柵からさほど遠くない地にありました。 

 

      

               武田軍の犠牲者を悼み作られた信玄塚。

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直虎ゆかりの地 〔御前崎市新野〕

2017-10-16 17:33:32 | 「おんな城主 直虎」

今月11日に「新野のカカシ祭り」をご紹介しましたが、この時、大河ドラマ「おんな城主 直虎」に関連するカカシもいくつかありました。

この新野地区は、ドラマで直虎の叔父の役をした新野左馬助親矩で、この地「新野村」を収めた今川氏の一族であり、左馬助の妹は、井伊直盛の妻、すなわち直虎の母となり、この地と深いかかわりがあったので、ドラマ放送に鑑み、直虎ゆかりの地として観光的にも賑わっています。

その左馬助公の併設されている神社と墓を訪ねてきました。上の小画像は公道から見た左馬助公を祀る神社の小山です。

   

 近づき石段を上がると正面に左馬助を祭る神社「左馬武神社」が現れます。

   

 石段を登り終えた上(場所)はきれいに整備されていました。

   

 左馬助公を祀る左馬武神社で、ここでは毎年、新茶を献上する「献茶祭」が行われ、左馬助公の遺徳を偲んでいるとのことです。

       

その左手に左馬之助の墓とその左手に、「新野左馬之助親矩之遺蹟」と彫られた石碑が立っていました。

新野村の領主であった左馬助公は、今でも地元の皆さんに語り継がれているようでした。

 

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直虎紀行:松下屋敷と頭陀寺城跡

2017-10-10 11:00:19 | 「おんな城主 直虎」

 大河ドラマ「おんな城主 直虎」の10月8日の放送では、幼少の虎松がひきとられた松下家や万千代と名を改めた虎松の草履番などが放送されました。その終盤に放送される「直虎紀行」では、今回は頭陀寺と松下屋敷跡や、群馬県高崎市の直政が居城した箕輪城跡などが紹介されました。

 箕輪城等の資料はありませんが松下屋敷跡と頭陀寺は先に訪問しておりますのでそちらををご紹介します。

 頭陀寺(ずだじ)は、JR浜松駅から東南東に約2~3kmほど行った現在、浜松市南区頭陀寺町に位置します。

    

                   (頭陀寺の本堂と境内の風景)  

  頭陀寺は、戦国の時代には多くの塔頭寺院を抱える大きな寺で、境内の一角に戦国武将の松下之網の屋敷がありこの一帯を松下屋敷〔別名頭陀寺城〕と呼ばれたとのことです。

 門前には頭陀寺城跡の説明看板や、浜松市内で最も古い道標とその説明板が置かれていました。道標は「頭陀寺薬師道」との表記で1711年建立とのことです。

       

 浜松市は2001年と2015年に松下屋敷跡の調査を行い、伝承通り、戦国時代の屋敷が地中に埋められたとのことです。

 頭陀寺本堂の北側には、子供時代の虎松や、松下家に3年間奉公したとある秀吉公の像並びに、浜松市雄踏町の中村家から時々馬でここまで遊びに来たとされる家康公の幼いころの像が3人並んで建立されていました。

  

            (三人の像〈下段に拡大図〉と頭陀寺の資料館)

             ( 秀吉   :   家康   :   万千代 )

 頭陀寺の門から数百m南には現在公園となっている、「松下屋敷跡の石柱」〈頭陀寺城跡)が建っています。松下家の屋敷は100m四方の広い土地でありましたが、今は、広い道路やカッパ寿司の敷地などになっています。

   

      

      頭陀寺公園とその一角に松下屋敷跡の碑が立っていました。 

 

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浜松城と家康公 《大河ドラマの紹介地》

2017-10-02 17:03:17 | 「おんな城主 直虎」
 10/1放送の大河ドラマ「おんな城主 直虎」第39話では「虎松の野望」が放送され、虎松の果敢な姿が放送されました。
 その「おんな城主 直虎」の放送も最終章ということで、実質10~11月となりいよいよクライマックスですね。

 さて、本日は時々ご紹介しています、ドラマ終了後の放送関連地(2分前後の放送分)の紹介は今回は浜松城と家康公の立像などでした。その関連画像が撮ってありましたので少々追加でご紹介します。

 最初の場面は浜松市の現在の風景から。《放送は浜松市役所屋上からの市街地のようでした。》

   
          (浜松市街:左・JR浜松駅前。右・田町大通り)

 次に紹介されたのが、家康が浜松に初めて城を築いた場所『曳馬城跡』(のちの浜松城)で現在の「元城町東照宮」が建っている風景でした。

       


                  (東照宮の狛犬と彫刻等。)

                       (東照宮の鳥居とゆかりの家康と秀吉の像。)

 次はの紹介は浜松城。野面積み(自然石積み)の石垣や天守門など。


          (野面積みの石垣の上に再建された浜松城天守閣。)

 浜松城の南東下に2014年に天竜杉を使った木材で再建された天守門も紹介がありました。



 そして、現在地に曳馬城を改め浜松城を築城した徳川家康の同公園内にある像が紹介されました。

    

  
                (徳川家康公の銅像)

    
              (浜松城天守閣から見た街の風景も紹介されました。)

 これから直虎の後見した虎松(万千代→直政)が徳川四天王となる活躍が放送されることを期待しています。

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『気賀』の町ってどんなとこ? 《そのⅡ 歴史編》

2017-09-13 08:04:43 | 「おんな城主 直虎」
 大河ドラマ「おんな城主 直虎」の中でたびたび登場する『気賀』の町とはどんなとこ?。
 
 その1(9/6投稿)では、「気賀の現在の街から」編で、ぶらり散歩で見られる風景をご紹介しました。
 今回は「歴史探索」編で、ドラマの放送の時代やその後の徳川家康とのかかわりのあった場所などを、気賀の歩んだ歴史探索をしてみたいと思います。

 上の小画像にある絵地図の①~⑧までをたどってみたいと思いますが、絵地図は見づらく、説明文字の上に訪問先の番号を挿入しましたのでご了承下さい。(クリックで拡大します。)

① 最初は左下の「堀川城跡」
 
 現在の都田川(当時の堀川)の河口付近にあったと言われていますが、当時と地形も変わり場所は特定されていません。
       
            (堀川城跡と古戦場を示す石碑)

 この城は、今川氏による徳政令免除の見返りとして、今川氏の家臣と村人により築かれましたが、やがて家康の攻勢にあい、村人たちも含め、なで斬りにされました。(下記④に関係の獄門畷の項があります)
 
       (堀川城跡の説明には場所は特定できなかったとあります。)
           

 ② 気賀関所跡

 気賀の関所は図の②にあったといわれます。
 慶長6年(1601)徳川家康によって創建。東海道の本坂越え(姫街道)の交通取締りにあったと言う。当初は茅葺であったが1789年の改築されている。現在は民家になっていて、側面から一部屋根部分しか確認できませんでした。



 ③ 気賀関所
 (②の旧関所の場所から離れ、現在地に復元された関所が設置されています。)

 関守りは井伊家と関係の深い気賀近藤氏が務めました。


        (現在の復元建物等、東西の関所出入口の門や取調べの様子など。)


      (位の高い武士の部屋や女人改めの現場など。下段は資料館展示風景。)


 ④ 獄門畷(ごくもんなわて)

 徳川家康が堀川城攻めの戦いでなで斬りした人々の首を川端の道にさらしたとされる碑。


       (地元の人たちにより守られています。)

 ⑤ 秋葉燈籠


 気賀宿西枡形の秋葉道路脇の石積に、「ヒョウタン型の石」が見られる(右画像の中央部分)。当時の石積職人が腕前を見せつけるために作ったといわれています。


 ⑥ 近藤陣屋・遺木江戸椎(いぼくえどしい)


 気賀一帯の領主で旗本だった気賀近藤家の屋敷があった場所で、この椎の木が陣屋の庭に植えられていたもので当時の陣屋の面影を残すものと言われる。


 ⑦ 細江神社と藺草(いぐさ)神社
 
 元は太平洋側の新居町に鎮座していたが、浜名湖が海とつながった大地震の津波で御神体がこの地にまで流され、地元民らがここに神社を建立。地震厄除けの神として祀られています。
 毎年7月に、御神体を載せた進む神興船が奥浜名湖を優雅に渡ると言います。


 (上段がが細江神社、下段が藺草神社と栽培されたい草。)

 また、藺草神社は宝永4年(1707)の大津波では、浜名湖一帯が塩水に使い、稲は壊滅的な被害をこうむった。当時の領主近藤用随は塩に強いい草の栽培を進め窮地を救ったとされ、用随公の徳をたたえて建立されたという。細江神社社殿の東側に建っています。


 ⑧ 本陣前公園
 
 気賀駅の北側にある気賀本陣跡の記念の公園。
 1587年、本多作左衛門によって気賀宿と定められて以来、家康によって関所が置かれると新居の関所と並んで重要な宿場となり、現在の豊川市御油と東は磐田市見附宿のの間のもっとも重要な宿駅となったとのことです。
 本陣は中村家が務め、場所は同公園の東30メートルの北側(現在はNTT建物の敷地など)に、気賀関所はここから東側600メートルの地に(上記紹介の②地点)にあったと記されている。
 また、同公園には馬頭観音堂が東側に設置されています。(下図右下) 


               (本陣前公園と馬頭観音堂)


 大河ドラマの『気賀』の街。現代版と歴史版の2回にわたってご紹介しました。
 参考にしていただき、ドラマ放送中にそのいくつかを訪ねてみてはいかがでしょうか。



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虎松の預けられた鳳来寺

2017-09-11 08:13:25 | 「おんな城主 直虎」
NHK大河ドラマ・9/10放送の第36話、「井伊家最後の日」をご覧になりましたか。
 36話では、「おんな城主 直虎」が井伊家再興を断念し、愛知県鳳来寺に預けられていた親直の子「虎松」を母の再婚先、浜松の松下家の養子として迎える話が放送されています。
 
 しかし今日は、その本題ではなく、放送終了後に毎回紹介放送されるドラマの関係地の話題です。
今回放送では虎松が8歳~14歳まで預けられたという[鳳来寺]の紹介がありましたので、その鳳来寺を訪ねてみたいと思います。
 仏法僧でおなじみの鳳来寺山。この中腹にあるのが今の大河ドラマで井伊家の虎松が預けらた703年に開かれた真言宗の古刹の鳳来寺です。
 ここは天竜奥三河国定公園にもなっています。
 (仏法僧《鳥》と言ってもお分かりにならない方もいるかもしれませんが。)

 その鳳来寺の表参道。本堂までは長い石段(1425段)を上ることになりますが、本日は、参道入り口にある門をご紹介します。 
 ここは、かつて豊橋鉄道の田口線が走っていた県道32号線(通称伊奈街道)の旧鳳来寺駅前で、ここからが参道になります。
 この参道の入口に立つのが道の両側に塔の形で立つ二つの門。「三の門」です。

       
  (鳳来寺表参道入り口の三の門)

 鳳来寺の本堂には別ルートで鳳来寺山のパークウェイを車で山頂駐車場まで行くことができますから多くの人はそちらを利用して参拝するようです。そのルートの一部をご紹介します。
   
  (紅葉の頃が最も美しいパークウエイのもみじと山頂駐車場)

ここから徒歩十数分で本堂に到着します(裏参道)。

       
 (裏参道から眺められる岩山の鳳来寺山)


         
    (鳳来寺本堂: 於大(おだい)の方が子に恵まれたいと祈願し徳川家康が授かったことで徳川幕府の厚い保護を受けた寺です。)

 本堂の北側には大きな屏風岩があり、下手にある鐘楼堂。
       
 その鐘楼からの鐘の音は10数分にわたって、山々に反響するという。

   
 (東照宮。家康が誕生したことにより三代将軍家光の命により建てられました。)

※ 参考 
  鳳来寺(山)は、天竜奥三河国定公園に組み入れられています。その郵便切手が1973年に発行され、図案の中に鳳来寺参道の石段や、前述の鳥で「ブッポウソウ!」と鳴く鳥のコノハズクが描かれています。
  下の画増は発行された額面20円の鳳来寺山の郵便切手です。
        
      (鳳来寺参道の石段と切手の左上に描かれているのがコノハズクです。


 「おんな城主 直虎」が放送されているうちに訪ねるのもいい機会です。
 秋の紅葉(11月下旬ころ)の頃、鳳来寺山パークウェイを利用して紅葉見物しながらお出かけになってみてはいかがですか。
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大河ドラマの舞台となった『気賀」の町とは?Ⅰ

2017-09-06 14:43:42 | 「おんな城主 直虎」
 NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の中でたびたび登場する『気賀』の町とはどんなところでしょう。
 画像と地図でご紹介します。画像や紹介地が多いので、今回は「気賀の現在の街から」編と次回に「歴史探索」編の2度に分けご紹介します。

 まず上の小画像(本日のタイトル文字をクリックすると拡大します)で、気賀の中心市街地を山の上の展望台から見た風景でご紹介します。
 気賀の所在地は浜松市北区細江町気賀にあたります。ドラマの中心・井伊谷城や龍潭寺からも南西へ十数キロの浜名湖へそそぐ都田川の河口近くにあります。

   
  (日本地図ではこのあたり。静岡県西部の浜名湖の北部(奥浜名湖と呼ばれています)


  (浜名湖の北部を抜粋した地図。地図の右手上の青い印が気賀で、すぐ右上が井伊谷となります。)

 それでは、上の小画像でご覧いただいた街中を現在の風景で回ってみたいと思います。

 町の中心は、天竜浜名湖鉄道の「気賀駅」。気賀駅は天浜線が国鉄二俣線時代から70有余年が経ち国登録有形文化財となった一つに加えられています。同駅の駅舎(本屋)プラットホームとその上の上屋が文化財となっており、そこから400m程東にある「気賀町高架橋」も有形文化財になっています。


       (ドラマの「 直虎」にちなみ赤い布で飾られた駅舎玄関と駅舎内及びホームの文化財。)


     (もう一つの登録有形文化財の気賀町高架橋=コンクリートの高架橋です。)

 天竜浜名湖鉄道は全線非電化の67.7kmをジーゼル気動車で運行されていて、現在直虎の放送に合わせ2種類のラッピングカーが走行しています。

      (左はバサラ調の戦国武士、右は直虎と井の国の文様が描かれています。)


 町の北側の街が見渡せる丘の上には国民宿舎「奥浜名湖」があり、気賀の街や遠くは浜松市街や浜名湖が見渡せます。


   (奥浜名湖では、すっぽん料理やウナギ料理もあり人気の国民宿舎です。今は直虎御膳も)

 国民宿舎東200mのところには細江公園の展望台があり、ここからの眺望もよく、気賀の街並みや浜松駅近くのアクトタワー、浜名湖や東名浜名湖橋の風景も望めます。上の小画像はここから眺めた風景です。
 展望台の横には昭和42年ころから延8年間にわたって、現在の天皇陛下ご一家が静養に訪れたことを記念する碑も建っています。
 
            (眺望のよい細江公園の展望台。)


            (天皇陛下ご一家のご来訪を記した記念の碑。)

 NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の放送の大河ドラマ館も気賀の街の中心地で、天浜線気賀駅からも徒歩1分の近いところにあり賑わっています。

              (大河ドラマ館建物と、入り口エントランス風景)

 また、気賀の名物は甘党にとって大人気の「みそまん」。数件のお店が競ってみそまんを販売しています。

 (広範囲の浜名湖北部地域には11軒のみそまん店があり、イベント時には11種類のセットものが並ぶという。左は今回購入みそまん)


 浜名湖に近い川沿いに進むと、「おんな城主 直虎」放送中に、観光地舘山寺温泉と、大河ドラマ館を遊覧船で結ぶ航路が開設され、臨時の桟橋も設けられています。


  (都田川河畔に設けられた臨時の船着き場と、運行中の観光船。所要時間は約25分とのこと。)

 すぐ川下側には平成元年にできた自転車と人のみ通行可の「澪つくし橋」が赤色で印象的に掛かっています。
 さらに100mほど川下には、平成17年に架設された細江大橋があり、舘山寺温泉方面への近道と浜名湖周遊が便利になっています。


       (赤色が印象的な「みをつくしばし」。自動車は通行できません。)


 (細江大橋の銘板には有名な姫様道中の図が描かれ、橋の下には越冬するカモの大群が毎年飛来します。)

 今日の最後に、気賀は周辺とともにミカンやネーブルの産地。秋には山肌が黄色に染まります。遠鉄バスの気賀営業所には「おんな城主 直虎」のラッピングバスが停車していました。


                (みかんの産地、気賀の風物詩。)


         (大河ドラマ放送中に龍潭寺と大河ドラマ館を結ぶラッピングバス。)

 細江の街(気賀)をぐるっと散歩し、大河ドラマに出てくる今の街をご紹介しました。

 次回に、ドラマ放送の時代とその後の徳川家康とのかかわりのあった場所などを、画像がまとまり次第、近日中にご紹介したいと思っています。
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