作詞: 西条八十 作曲: 大村能章
歌唱: 伊藤久男
(一)
貴様と俺とは 同期の桜
同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
見事散りましょ 国のため
(二)
貴様と俺とは 同期の桜
同じ兵学校の 庭に咲く
血肉分けたる 仲ではないが
なぜか気が合うて 分かれられぬ
(三)
貴様と俺とは 同期の桜
同じ航空隊の 庭に咲く
仰いだ夕やけ 南の空に
いまだ帰らぬ 一番機
(四)
貴様と俺とは 同期の桜
同じ航空隊の 庭に咲く
あれほど誓った その日も待たず
何故に死んだか 散ったのか
(五)
貴様と俺とは 同期の桜
離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社
春の梢に 咲いて会おう
海軍精神
五分前 .
時間厳守 .
出船 .
物心両面で有事即応の態勢を敷く。 .
同じ航路も初航路 .
油断大敵 .
指揮官先頭、率先垂範 .
経験の深い上級者が先頭に立って模範を示す。.
サイレント・ネイビー .
軍人としての本務に邁進し、大言壮語を慎む。 .
全力で責任を果たし、失敗しても言い訳をしない。
月月火水木金金 .
軍備に制限あっても、訓練に制限なし
五省
五省(ごせい)とは、旧大日本帝国海軍の士官学校である海軍兵学校(現在は海上自衛隊幹部候補生学校)において用いられた五つの訓戒。
内容]
- 一、至誠(しせい)に悖(もと)る勿(な)かりしか
- 真心に反する点はなかったか
- 一、言行に恥づる勿かりしか
- 言行不一致な点はなかったか
- 一、気力に缺(か)くる勿かりしか
- 精神力は十分であったか
- 一、努力に憾(うら)み勿かりしか
- 十分に努力したか
- 一、不精に亘(わた)る勿かりしか
- 最後まで十分に取り組んだか
概説
今日では帝国海軍の精神を象徴する標語であるかのように語られることがあるが、五省が兵学校校舎に掲げられるようになったのは国内の軍国主義的色合いが濃くなり始めた1932年(昭和7年)からであり、その採用期間は海軍70余年の中でも末期の10数年間に過ぎない。古参の海軍軍人の中には、文語調箇条書きの五省を生徒に唱和させることについて、「(リベラリズムと柔軟性を重んじた)帝国海軍の伝統になじまない」として不快感を表明する者も少なからず存在した。
しかし、一方で、太平洋戦争後に日本を占領したアメリカ海軍の幹部が五省の精神に感銘を受け、英訳文をアナポリス海軍兵学校に掲示したり、日本国内でも、海上自衛隊が日々の行動を自省する標語として用いたりしている。現在、海軍兵学校の後継にあたる海上自衛隊幹部候補生学校及び海上自衛隊第1術科学校では、五省が旧海軍の伝統として継承されている。
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YouTube: 神風特別攻撃隊の言霊 2 YouTube
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YouTube: 日本の軍歌ー同期の桜
2007/09/10 ? 特攻隊はテロではない! 六十数年前の悲劇に散った若者たちの勇姿を称え悼み、現代のニッポン人へ日本人としての自覚を呼びかけ、堕落と喪失のニッポンの脱却と希望溢れる祖国「日本」の復活を訴える渾身の一作。 我々 ...
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作詞者
原曲は「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で、昭和13年(1938年)1月号の「少女倶楽部」に発表された西條の歌詞が元になっている。直接の作詞は、後に回天の第1期搭乗員となる帖佐裕海軍大尉が、海軍兵学校在学中に江田島の「金本クラブ」というクラブにあったレコードを基に替え歌にした[1]とも、同じく潜水艦乗員であった槇(旧姓岡村)幸兵曹長[2]とも言われていた。
1984年5月5日、当時呉軍楽隊に勤務していた谷村政次郎(後に海上自衛隊東京軍楽隊長)が金本クラブを訪れ、割れてはいたが「戦友の唄」のレコードが見つかり(現在は江田島市ふるさと交流館1階に展示)、帖佐の証言が正しいことが証明された[3]。ただし、5番まである歌詞のうち、3番と4番は帖佐も作詞していないと証言しており[3]、人の手を経るうちにさらに歌詞が追加されていき、一般に知られているもののほかにも様々なバリエーションが存在することから、真の作詞者は特定できない状態にある。
同期の桜事件
1980年、ある元潜水艦乗組員である山下輝義という人物が「同期の桜は自分の作った『神雷部隊の歌』の複製である」として、レコード会社6社を訴えた事件が発生した。しかし流行歌研究家の長田暁二がこのレコードの存在について東京新聞の並木智彬記者に話し、彼自身が埼玉で、前述の「戦友の唄」(樋口静雄歌唱)を収録したレコードが発見されて訴えは棄却された(同期の桜事件:東京地方裁判所判決昭和58年6月20日)。
演出
時局に合った悲壮な曲と歌詞とで、陸海軍を問わず、特に末期の特攻隊員に大いに流行した。帝国軍を代表する軍歌とも云え、戦争映画等ではよく歌われる。また、この歌詞にも、当時の軍歌ではよく現れた「靖国神社で再会する」という意の歌詞が入っている。
その一方で、戦争映画でみられる兵士が静かに歌うシーンは実際に無かったという説もある[3]。兵学校71期生の卒業間際に、指導教官が「死に物狂いで戦っている部隊で歌われている歌」として紹介して以来、教官の間で広まっていき、大戦末期に海軍兵学校から海軍潜水学校で一気に広まったとされており、兵学校に在学していても、戦後まで全く知らなかった人物も多い[3]。
1945年6月29日と同年8月4日のラジオ番組で、内田栄一によって歌われているのが、この曲に関する最も古い記録といえる。
著作権情報
同期の桜を歌った歌手
鶴田浩二
戦時中、特攻機の整備をして特攻隊員を見送っていった鶴田浩二は、曲を伴奏に、特攻隊員の心情を日記形式にして読み上げる作品を自ら作詩し、レコードに収録した。これは当時所属していたレコード会社間の著作権の関係で、西條八十の詩を歌うことが出来なかったことによる苦肉の策であった。
後年は問題が解決したため、朗読と歌の双方披露したレコーディングもしている。
替え歌
1976年第1次長嶋茂雄監督時の読売巨人軍がリーグ優勝を果たした際、ビールかけ会場で長嶋監督以下、王貞治、張本勲、柴田勲ら巨人軍選手が輪になり、同期の桜を「巨人の桜」と替え歌で唄った。
参考文献
- ^ 「あゝ同期の桜・幻の作曲家に一千万円」『週刊読売』1967年3月3日号
- ^ 児玉隆也「同期の桜は詠み人知らずか!」『週刊小説』1974年2月22日号
- ^ a b c d 谷村政次郎「海の軍歌のアンソロジー 第10回「同期の桜」」『世界の艦船』712集 海人社 2009年