2013年03月17日
日本海軍のハイテク兵器開発 大井川改修 実験所跡、堀削対象に
太平洋戦争末期、「殺人光線」と呼ばれた当時のハイテク兵器の開発を目指した旧海軍の実験所の遺構が、大井川河川敷に突き出した牛尾山(島田市牛尾)の山中に残されている。ほとんど人目に触れぬまま終戦から70年近い月日が流れ、記憶の風化が進む中、河川改修工事に伴って遺構が姿を消そうとしている。
「素晴らしい景色だ」
2月20日、掘削が進む牛尾山の山頂付近で開かれた国土交通省による河川改修工事の現場見学会。30人の地元住民らは標高約115メートルの特設展望台で、眼下を流れる大井川の眺めに感嘆の声を上げた。国交省静岡河川事務所島田出張所の担当者にも、熱心に質問を浴びせていた。
しかし、展望台からわずか100メートルほどしか離れていない山中に、ハイテク兵器の開発に取り組んだ戦争の遺構があることを知る人は少ない。
実験所は「海軍技術研究所島田実験所」という。研究された「殺人光線」とは、マグネトロンという装置で発生させる電磁波。航空機や爆弾に向けて発信し、発熱、爆発させようともくろんだ。発熱の原理は電子レンジと同じという。
見学会の翌日、島田出張所の冨増弘一所長と、地元の金谷郷土史研究会会員の臼井利之さん(66)に同行をお願いし、実験所跡を見に行った。
大井川右岸の堤防道路が牛尾山に突き当たった所にある「立ち入り禁止」の看板を越え、山の中へ。道のない急斜面を数十メートル登ると、人の手で尾根を切り崩して造ったとみられるくぼ地に出た。朽ちかけたコンクリート製の建物の基礎が延び、両端はやや内側に傾斜して立ち上がっていた。「これはドーム屋根の土台でしょう」と臼井さん。
古ぼけた石垣で区切られた区画を一段上ると、そこには、ピラミッドの上部を切り取ったような形のコンクリート製の構造物が二つ。高さはそれぞれ約4メートル。二つの距離は約10メートル。
臼井さんは「殺人光線」を発信するアンテナの台座とみる。上空を通過する敵機に狙いを定めたのだろうか。
冨増所長によると、牛尾山の掘削工事が順調に進めば、2014年度には実験所跡のある場所が対象になる。臼井さんは「実験所を知るのは、地元でも70歳以上の人ぐらいではないか」とする。着工前に行った調査を基に、郷土史研究会として報告書を出すという。
島田市教育委員会文化課は、遺構をどうするか14年度までに決めるとしている。遺構は文化財の指定を受けておらず、記録保存にとどまりそうだという。
■終戦まで研究継続/教諭・小屋さん 聞き取り調査で
島田樟誠高校(島田市)社会科教諭の小屋(こや)正文さん(62)は、1992年に出版社「平和文化」(東京)が発行した「明日までつづく物語 ぼくたちの町の戦争」の一章として、「海軍技術研究所島田実験所 殺人光線兵器の開発」を著した。関係者への聞き取り調査などをまとめたものだ。
小屋さんによると、旧海軍は43年、島田町(現島田市)の街中に実験所を開設した。後にノーベル物理学賞を受賞する湯川秀樹、朝永振一郎の両博士も講義に訪れたという。
本土への空襲が激しくなる中、実験所の一部を大井川対岸の牛尾山に移設することを決定。45年初頭から移転工事が始まった。
ここで悲劇は起きる。移転建設中に、実験所のドーム屋根が崩落。東京に出張中だった民間人の現場責任者は事故の2日後、責任を取り、現場近くの山中でダイナマイトで自決した。
ドーム屋根が再建されることはなかったが、終戦まで研究は続いた。戦後は米軍に接収され、米軍の技術将校が「最上級の驚きと関心」を寄せたという。
本が発行されて20年以上が経つが、小屋さんも、ここにまとめた以上の事実を発掘できてはいない。
小屋さんによると、寄せ集めだった研究者の多くは終戦後に島田を離れ、また、地元の良家の子弟が「徴用逃れ」のような形で働いていたケースが多く、「触れたくない」という雰囲気が強かったという。さらに本が出た後、旧海軍関係者から「箝口(かんこう)令」が敷かれたようだという。
時の経過と共に関係者の多くは世を去り、事情を知る人は減るばかりだ。(三宅範和)
◆牛尾山と大井川改修工事 大井川の河川敷に突き出している牛尾山を約150メートル切り取って川幅を広げ、洪水に対する安全性を向上させる。昨年9月に着工し、工期約8年、総事業費約30億円。発生する約22万立方メートルの土砂は、焼津市の防災拠点となる高台造成などに利用する。安土桃山時代の1590(天正18)年に、対岸と山続きだった牛尾山を切り割って大井川の流れを変えた「天正の瀬替(せが)え」以来、約420年ぶりの大工事となる。
空の要塞と言われたB29爆撃を撃墜出来る日本海軍の戦闘機が無かったので、 強力な電子線出る電波兵器の研究開発を目指したと思います。終戦間際で鉄材やコンクリートの不足で移転建設中のドームも崩壊しなかなか完成しなかったのでは有りませんか。電力不足も影響し開発時期が遅れ実用化出来なかったのでは有りませんか。戦後の電子レンジ開発に研究が役立ったのでは有りませんか。 、小屋さんによると、寄せ集めだった研究者の多くは終戦後に島田を離れ、また、地元の良家の子弟が「徴用逃れ」のような形で働いていたケースが多く、「触れたくない」という雰囲気が強かったという。さらに本が出た後、旧海軍関係者から「箝口(かんこう)令」が敷かれたようだという旧海軍関係者から「箝口(かんこう)令」が敷かれたようだと言うのも戦前の人や陸海軍に従軍した人なら外部に公開しないのは常識と思います。戦前の教育を受けた日本人の方々は、愛国心から国を売るようなことは口外されないと思います。日本の利益にならず日本人として恥になるからだと思います。旧日本軍の兵器に関しては、本当の性能や記録は、旧帝国日本陸軍も旧帝国海軍も公表しなかったと言われています。軍事上の秘密と機密保持の重要性からと思います。公表されている資料を鵜呑みにするコンピューターお宅や兵器マニアが、旧日本軍の戦闘機や兵器が、アメリカ軍に比べ性能が劣ると言っても戦争経験の無い頭でっかちのマニア言うことです。旧日本陸軍の戦闘機疾風は、ハイオクタンガソリンを入れれば最速だったとアメリカ軍は実験結果を公表しています。戦前軍隊に言った人は、誰でも知っていると笑うと思います。旧日本軍の兵器の本当の性能や資料は公表しないのは常識と大東亜戦争で、中支那派遣軍の一員として野戦で七年間毛沢東の八路軍や蒋介石国民党の正規軍とアメリカ空軍と戦った父が話してくれました。公表どおり信じて旧日本帝国陸軍、海軍の兵器は性能がアメリカ軍の兵器より一方的に悪いと言ってはいけないよと注意してくれました。アメリカでもロシアでも皆同じだと亡き父は言ってくれました。中国や北朝鮮軍の軍事パレートをテレビで亡き父は見ていて、最新兵器なんか公表するかと笑っていました。平和ぼけしたお人よしの口の軽いおしゃべり女性や戦後の日本人には分からないことでも有ります。資源が豊富で工業生産力と工業技術力が有るアメリカと日本が精神主義を過信し闘ったのは無謀でした。大正十五年生まれの亡き母、金持ちのアメリカと貧乏人の日本の差と言いましたが。資源や資材の無い中日本の技術者の智恵と創意工夫と現場の経験豊かな叩き上げの職工さん、職人気質の技術で良く頑張れたと思います。戦後日本の国産指導者の生産に寄与されたと思います。何でも日本の作ったものは、技術的に駄目だと思いません。航空機搭載の優れた大型潜水艦も作り、アメリカ海軍に機密保持の為にハワイの海底に原型のまま沈められています。日本の戦後復興を支えた生産現場でのベテラン旋盤工の皆さんの一ミリも狂わなかった名人芸の部品製造の技術も有ったと思います。戦後からら今日まで中国や韓国、北朝鮮から日本は悪者扱いされいますが、日本の乏しい資源と資材中で生まれた生産品、中国や韓国製品では真似出来ない高品質で丈夫な日本製の良さを今こそ見直すべきです。日本の若い人たちは、日本人としての自信と誇りを失っています。日本の資源の乏しい中、獅子奮闘した現場技術者の技術者魂と汗と努力の結晶が現代日本の製造現場で生かされていると言うことです。
yahoo智恵袋より引用
- 質問日時:
- 2009/7/17 14:56:48
- 解決日時:
- 2009/8/1 04:09:01
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ベストアンサーに選ばれた回答
違います。
国家戦略がなかったからです。
日米対立が決定的になったのは三国同盟締結。
日本は状況判断を誤り、「ドイツは勝つべきだから勝つ」との一方的な思いこみを前提として、他力本願の三国同盟締結へと走った。日本の対米開戦はドイツの最終的勝利を前提にした他力本願の開戦であったから、そうであればあるほど欧州戦争の帰趨に関する情報収集は徹底したものでなければならず、それは一切の思いこみや主観を排したものでなければならなかったにもかかわらず、実際には真剣な情報収集を怠っただけでなく、「ドイツ危うし」とする情報さえあえて無視するという、戦略的思考の不在を露呈。
独ソ開戦で松岡の「四国協商」構想は破綻し、三国同盟破棄も考えられたはずだが、「今次作戦は恐らく4週間にて終わるべし」との大島駐ドイツ大使報告を盲信、対独追随路線を継続。
真珠湾攻撃の1941年12月において、独ソ戦争の帰趨につき最後の確認を行なうべきであったし、この時点において独軍の敗退を察知することもできた。ドイツ軍の前進が止まり、3人の元帥とドイツ陸軍総司令官のブラウヒッチュ元帥の相次ぐ罷免・辞任という異常事態にまったく反応せず、「ニイタカヤマノボレ」と、取り返しのつかない亡国の道へと突入した。
ドイツという他人の褌で相撲をとろうとし、
開戦の用意・準備も覚悟もなく日中戦争でふらふらの体力で、開戦するというていたらく。
中国大陸に、陸軍は昭和12年で、16師団、混成2個旅団、後備2歩兵旅団、計56万人。翌年8師団、混成5個旅団を加え80万人、14年1師団、混成14個旅団を増派。終戦時には、関東軍24師団、朝鮮軍7師団で100万を超過していた。当時の男子人口3600万人の実に3%をしめている。
対米戦闘には、陸軍のごく一部と海軍、すなわち片手でアメリカと戦うというばかげた戦争だった。
生産力格差だけではない・・・戦術あって戦略なし
空母の集中運用など、航空戦術に一日の長があったように言われていますが。たぶんに思いつきの観はいなめない。
海軍・・・開戦時零戦500機と九六式戦闘機300機、戦闘機パイロット約1000名をなんとか揃えた。開戦半年で海軍戦闘機パイロットの戦死者約300人、開戦1年で1000人が戦死。
陸軍・・・開戦時に配備されていたのは僅か二個飛行戦隊、残りは旧式の97戦というありさま。
航空主兵という戦略で見れば、アメリカは戦争開始前の昭和15年半ばに、既に将来戦を予想して膨大な飛行機の増産計画と、これに見合うところの搭乗員の養成計画を立て、一意その実現に邁進。彼我の航空戦力に大きな差が現れてきたことは確実で、いかに飛行機を造っても、これに配する搭乗員、特に士官搭乗員がいないというような悲しい状況に陥った。
日本ではようやく、昭和18年6月ごろに海軍予備学生の採用試験が始まり、同年9月中旬には土浦、三重の両練習航空隊に入隊して訓練を始めることになった。
しかしながら、これらの予備学生・予備生徒の採用もアメリカ搭乗員の大量養成を始めた時期に比べるときには約3ヵ年も遅れをとり、日本海軍航空のその後の退勢に大きく響いた。
日本は飛行機の生産が、アメリカのそれに及ばなかったことは已むを得ないことではありましたが、それにも増して搭乗員の養成に遅れを取るに至った。
防空艦でも
アメリカ海軍は新造軽巡洋艦に高い防空力を持たせることを計画。対艦と対空の双方をこなすことができる中間的な38口径5インチ両用砲を開発。優れたレーダーと射撃指揮装置を搭載し、真珠湾攻撃後に順々に竣工、太平洋方面においての日本軍との戦闘に投入され、対空戦闘においてVT信管の効果もあって艦隊の防空に貢献。
当時の日本海軍はこの種の艦の導入にはそれほど熱心ではなく、程なく防空巡洋艦の建造計画は中止。その代わりに、1939年(昭和14年)から建造を開始されたのが秋月型の駆逐艦である。アメリカの防空巡洋艦と比べればはるかに見劣りがする。
自国の国力判断についても戦略的な判断を欠いていた。
当時の日米の国力差は大雑把に見ても10対1以上の不利であり、対米勝利の勝ち目はなかったが、ドイツの勝利を想定するほか、日米戦争についても、日本の勝利を可能ならしめるような国力判断の数字合わせを行い、それをもって対米開戦を正当化していった。
参考
陸軍主計大佐で経済学者の新庄健吉が開戦前にアメリカとの国力差を研究している。この情報は開戦前に日本に知らされていた。日米の間には、鉄鋼1対24・石油産出力1対無限・石炭1対12・電力1対5・・・・。.
新庄健吉については
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%BA%84%E5%81%A5%E5%90%89
結果としてこのような格差となった・・・航空機生産量に見る日米差
http://www.geocities.jp/bbhusou/gunji/column02.html
なんと大型爆撃機については100倍の格差
日本軍合計 384 米軍合計 32213