山岡 孫吉(やまおか まごきち、明治21年(1888年)3月22日 - 昭和37年(1962年)3月8日)は、世界初の小型ディーゼルエンジンを開発したヤンマー(現・ヤンマーホールディングス)創業者。
生涯
略伝
農機具メーカー大手のヤンマー創業者。明治21年(1888年)滋賀県出身。尋常高等科卒業後明治36年(1903年)3円60銭を手に持ち奉公に出、明治38年(1905年)大阪瓦斯工事人夫として仕事をしていた時にガスエンジンに出会い、技術を学ぶ。明治39年(1906年)独立し、明治45年(1912年)中古ガスエンジンブローカー業を開業し、大正10年(1921年)農業用小型石油エンジンメーカーとなり、ヤンマーを商標として用いた[1]。
昭和7年(1932年)欧米視察に出、ドイツで開かれたメッセでディーゼルエンジンに出合い、小型ディーゼルエンジン開発を決意した。昭和8年(1933年)世界初のディーゼルエンジン小型化に成功した。昭和26年(1951年)第一回『藍綬褒章』を受章し、昭和30年(1955年)ドイツ発明協会金牌、昭和32年(1957年)ドイツ大功労十字章などを受賞している。昭和36年(1961年) 大阪市北区茶屋町にヤンマー本社ビルを竣工させた後の昭和37年(1962年)3月8日死去した[1]。
詳細
幼少時
山岡孫吉は、明治21年(1888年)3月22日滋賀県伊香郡東阿閉村(後の南富永村、現滋賀県長浜市高月町)に生まれた。2反保の田地を耕す山岡忠三郎と妻くにの間に生まれた7人兄弟の4男3女の6番目、祖父孫蔵の一字を取り孫吉と命名された。明治27年(1894年)阿閉小学校に入学し、明治31年(1898年)義務教育課程修了後も、どうしても勉学を続けたいとの孫吉の希望を聞きいれ決して楽ではない家計の中、北隣の古保利村の小学校補習科に進級させた。翌年七郷村に高等科が新設されると、同校の2学年に編入し明治33年(1900年)同高等科を卒業した[2]。卒業後父の手伝いをし2年が経ち級友たちが奉公などで村を出ていく中、孫吉も村を出たい気持ちが強くなり、当時募集されていたアメリカへの移民に興味を持つが、保証金180円(50俵分の価値)を用意できるはずもなく、かつ未成年であることから両親の承諾を得られず、移民の夢は霧散した。翌明治36年(1903年)正月、村を出たい気持ちは益々強くなり遂に奉公に出たい旨を母に告げ、父不在中を見計らい母よりもらった米1俵を現金化した3円60銭を手に、母に1万円貯めると約束して柳桑折1つを背負って大坂で働く長兄栄太郎を頼りに家を出た[3]。
大阪
大阪では、最初に天満のメリヤス屋に奉公に入るが3日で飛び出し、次に写真の台紙屋に1年半住み込み丁稚となったが病に罹り辞め、暫く長兄宅の2階で身体を休めていた。少しは足しにと釣に通うと、大阪瓦斯社員の人と仲良くなりその人を介して明治38年(1905年)工事人夫として採用されることになった。大阪瓦斯の工事で初めてエンジンと出会った。ガスエンジンであったが、エンジンの取り扱いを任されるようになった。ガス工事に慣れたところ、大阪瓦斯にゴム管を納めている会社に立ち寄ったところ表面がひび割れ大阪瓦斯から引き取りを断られたゴム管が大量にあり、販売を頼まれ工事仲間と共にかつての工事先を回り販売をし、結果的によく売れ終いには在庫全てを引き受けた。この経験から1万円貯めるには商売を行うしかないと決意した[4]。
明治39年(1906年)ガス管でひと儲けしたことから大阪瓦斯を退社し、翌年20歳になる年に兄の家も出自分で長屋を借り、偶にガス工事を請け負いつつゴム管ガス器具販売で独立し、1年で千円近く稼ぐ事が出来た。郷里から妹を呼び寄せたところ、長兄も子供一人を残して兄嫁が亡くなったため孫吉の家で一緒に暮らし仕事も共にすることになった。徐々に中古エンジンの修理・販売が仕事の多くを占めるようになり、明治45年(1912年)25歳になる年に、大阪市北区茶屋町に70坪の土地を借り、工員も7~8人雇い『山岡発動機工作所』と言う修理工場を開いた。この間、独立して仕事を起こしたことから兵役も免除された[5]。
この頃大阪では水力発電所が建設され、ガス発電・ガスエンジンから電気モーターの時代に変わりつつあり、幾つかのガスエンジン関連会社が倒産したり、不要となったガスエンジンが市場に安く出回ったりしていた。孫吉は、これを好機と捕え動力用電気送電が行われていない地域やガス会社も無い地域に目を付け、市中の中古ガスエンジンを安く手に入れ修理し新品同様に直したり吸入式ガスエンジン(ガス発生装置をセットにしたエンジン)に改造したりして、電気送電が無い所にはガスエンジンを、ガス会社自体が無い所には吸入式ガスエンジンを販売し、大儲けをすることができた[6]。第一次世界大戦が勃発すると更にガスエンジンの需要は増し、大戦が終結した大正7年(1918年)31歳の時に、孫吉は1万円どころか30万円以上の利益を上げていた。大戦終結後、不況となりガスエンジンも全く売れなくなったことから、一旦商売にけじめを付け、故郷へ帰ることとした。この間孫吉は、大正4年(1915年)28歳の時に、近所の薬屋の娘の世話で土肥淑乃を娶り、赤ん坊の長男がいた。家族で3ヵ月程故郷で遊び、その後大阪に戻ったが仕事は開店休業の状態が続いた[7]。
エンジンメーカーへ
今まで行ってきたエンジンを修理して販売するブローカー商売に限界を感じた孫吉は、大阪瓦斯工事人夫時代の仲間が丸亀でガスエンジンを石油エンジンに改良し、籾すり臼用動力機として販売していたことから、丸亀に機械と仕事ぶりを見学しに行った。また、その帰りに岡山県に立ち寄り、児島農場で使われている水揚げ用の動力ポンプを見学した。孫吉は、石油エンジンを使って特定の目的に用いる機械を作ることに興味を持つようになった。大正9年(1920年)早速、羊の毛刈りに使う軽い石油エンジンを購入し3カ月かけて農業用3馬力石油エンジン(農業用立形石油発動機)の試作品を作り、大正10年(1921年)この横形石油発動機に対して『ヤンマー』と言う商標を付けた。農業用エンジンとしては我が国初のものであり、ここに従業員12名程度の小さなエンジンメーカーが誕生した。『幼い頃、父の農作業を手伝い、今年は沢山トンボが飛んでいる。きっと豊作やで…』と言った言葉から、最初トンボを商標として用いようとしたが、静岡の醤油機械会社から商標権侵害と訴えられたため、トンボの親玉で山岡にも繋がる『ヤンマ』にしようと言う事になった。籾すり用として故郷の阿閉や長浜駅前で実演を行い、大変な評判を得て、生産が販売に追いつかない程の盛況となった。大正11年(1922年)東京不忍池で開かれた平和博覧会に動力籾すり・動力精米機・水揚げポンプを出品しいずれも大きな反響を得る事が出来た[8]。
大正14年(1925年)漁船用石油発動機を開発し販売を開始した。国内景気は悪化の一途であったが農業・漁業用エンジン共に頗る順調に売り上げをあげた。ところが、石油エンジンの爆発事故がおきたり、また、昭和4年(1929年)東京支店長が勝手に関東大震災後の需要を見込み高利貸しから資金を調達し砂利運搬用の大型トラックを15台も購入したため、高利貸しから支店・本社・本宅まで競売にかけられてしまい、会社だけは守るべく、急遽個人会社を株式会社に改組した[9]。
ディーゼルエンジン
昭和7年(1932年)2月、様々な事が立て続けにおきたことから気分転換を兼ね欧米視察に出かけた。3月ドイツに着きライプツィヒで開催されているメッセにおいて開発者であるルドルフ・ディーゼルを技術者として抱えるディーゼルエンジンメーカーマン社の映画を見、マン社のディーゼルエンジンの優秀さに取りつかれてしまった。日本国内でもディーゼルエンジンは大正8~9年(1919年~1920年)頃船舶用大型エンジンが国産され、小型エンジン開発競争が行われたが全て失敗していた。ドイツにおいても小型エンジンはまだ開発されていなかった[10]。7月日本帰ると早速小型ディーゼルエンジン開発に取りかかり、9月末4サイクル3馬力ディーゼルエンジン試作機が完成した。しかしエンジンは回るが不完全燃焼により黒煙を吐きまくり完全な失敗に終わった。国内の大型ディーゼルエンジンメーカー技術者を採用したが一向に目処が立たず、1年かけても完成できなかったことから、開発に係った社員全員を呼び『私のような者が、世界で最小のディーゼルエンジンを造ろうとしたのが間違っていた。一度諦める。皆には一人200円を渡すので一度温泉に行って疲れを癒してきてくれ』と語った。ところが、社員全員休むどころか逆に精を出し、一層研究開発に没頭していった。この努力の結果、昭和8年(1933年)12月23日煙一つ出さず3馬力のディーゼルエンジン(最大5馬力)が快調に回った。昭和天皇に皇太子(今上天皇)が誕生された同じ日に、世界で初めて小型ディーゼルエンジンが生まれた[11]。
ディーゼルエンジンを本格的に生産するためには、現在の工場では手狭なため、兵庫県川辺郡小田村(現尼崎市)に2万坪の土地を購入し工場建設に取りかかったところ、必要な資金(120万円)の調達が難渋してしまった。昔から付き合いがある鹿島銀行頭取から日本興業銀行に頼んでみることを勧められ、同行神戸支店を訪問したとこ