モハメド・アリさん死去 元ヘビー級王者 差別とも闘う
朝日新聞デジタル 6月4日(土)13時33分配信
モハメド・アリさん死去 元ヘビー級王者 差別とも闘う
モハメド・アリさん=サン・テレフォト提供
プロボクシングの元ヘビー級王者、モハメド・アリさんが3日、74歳で死去した。米NBCなど複数の米メディアが報じた。リングの外でもベトナム戦争への反対や、人種差別、信仰の自由をめぐる言動で注目を集め、20世紀の米社会を代表する人物の1人だった。
1942年、カシアス・クレイとして米ケンタッキー州ルイビルで生まれ、12歳からボクシングを始めた。60年のローマ五輪で、ライトヘビー級の金メダルを獲得したが、自伝によると、米国へ帰国後に黒人であることを理由にレストランで食事の提供を拒まれ、川に投げ捨てたという。
プロ転向後の64年にヘビー級王者に挑戦。前評判では不利とされたが、「チョウのように舞い、ハチのように刺す」という言葉通りにソニー・リストンを破り、世界王者となった。同じころ、黒人指導者のマルコムXらの影響を受けてイスラム教に改宗し、名前をモハメド・アリに改めた。
プロとして無敗のままだった67年、信仰とベトナム戦争への反対を理由に米軍への入隊を拒否。ボクシングライセンスを剥奪(はくだつ)され、王座も失ったが、「私とベトコンの間に争いはない」との言葉が有名となるなど、世論に影響を与えた。
70年にライセンスを再び取得してリングに復帰。74年に、当時無敗の世界王者だったジョージ・フォアマンに勝利し、7年ぶりに王者に返り咲いた。78年にレオン・スピンクスに敗れたが、同年の再対決で勝ち、3度目の王者となった。
81年の引退後は人道的活動に力を入れ、国連の「平和大使」にも指名されたが、パーキンソン病を発症し、次第に活動が難しくなった。96年のアトランタ五輪では、病気の影響で手が震えながらも、聖火点灯の大役を果たした。近年は体調が優れず、入院を繰り返していた。(ダラス=中井大助)
プロボクシングの元ヘビー級王者、モハメド・アリさん、アメリカを代表する社会活動家で、人道活動で世界に貢献されました。
最期まで、強い意思で病気と闘われたと思います。
☆モハメド・アリの名言
不可能とは、自らの力で
世界を切り開くことを放棄した
臆病者の言葉だ。
不可能とは、
現状に甘んじるための言い訳にすぎない。
不可能とは、
事実ですらなく、単なる先入観だ。
不可能とは、
誰かに決めつけられることではない。
不可能とは、可能性だ。
不可能とは、通過点だ。
不可能なんて、
ありえない。
Muhammad Ali
モハメド・アリ(1942年~2016年)
米国の元プロボクサー。世界ヘビー級王座を3度奪取。人種差別と戦い、ベトナム戦争の徴兵拒否など社会的にも注目を集める。
【 概略 】
1942年、ケンタッキー州ルイビルに生まれる。旧名は、カシアス・クレイ。12歳のときに、父親から誕生日にもらった自転車が盗まれる。「自転車ドロボウが見つかったらタダじゃおかない。きっとぶちのめしてやる」と泣き叫ぶクレイに、ボクシングジムのトレーナーもしていた警官がボクシングを勧める。
ボクシングジムに入門後、8週間でアマチュアボクサーとしてデビュー。初戦を勝利する。その後、ケンタッキー州の大会で6度優勝。1959年から2年連続で、全米大会で優勝を果たし、ローマ五輪のライト・ヘビー級代表の座を射止める。
1960年のローマ五輪で金メダルを獲得。しかし、帰郷したケンタッキーで人種差別を受け、悔しさから金メダルを川に投げ捨てた。クレイは、12歳~18歳までアマチュアボクサーとして活躍するなか、中学校を卒業し、高校に進学している。
1960年にプロデビュー。当時、アフリカ系アメリカ人(黒人)が公民権の適用と人種差別の解消を求めて行った公民権運動が盛り上がりを見せており、クレイもマルコムXらが所属するネーション・オブ・イスラム(黒人のイスラム運動組織。イスラム教から派生した新宗教)に入信。リングネームをモハメド・アリに改める。なお、1975年にイスラム教スンナ派に改宗している。
1964年、世界ヘビー級王座を獲得。試合後、本名をモハメド・アリへと改名。1960年にベトナム戦争が勃発。1967年、アリの良心的兵役拒否(宗教の信条や政治的、哲学的な背景に基づく兵役拒否)により、最初の裁判で禁固5年と罰金1万ドルを科せられ、ヘビー級王座とボクサーライセンスも剥奪される。アリは、その後も信念を曲げずに戦い続け、4年後の1971年に最高裁判所で無罪を勝ち取る。
リングに復帰したアリは、1971年に世界ヘビー級王座に挑戦するも敗北。1974年にジョージ・フォアマンに勝利し、王座に返り咲いた。1976年には、来日してアントニオ猪木と格闘技世界一決定戦を特別ルールで戦い、引き分けとなっている。
1981年に引退。その後、パーキンソン病にかかり、長い闘病生活に入る。公の場に出る機会は減るも社会に対してメッセージを発し続ける。2005年、米国ホワイトハウスにて文民に送られる最高の勲章である大統領自由勲章を授与され、また同年、生涯をかけた米国での公民権運動が評価され、ドイツのオットー・ハーン平和賞を受賞した。
2016年6月3日、米国アリゾナ州の病院にて74歳で永眠。』
出典Wikipedia(日本語版) / Wikipedia(英語版)