■「ノルウェイの森/Norwegian Wood」(2010年・日本)
監督=トラン・アン・ユン
主演=松山ケンイチ 菊池凛子 水原希子 高良健吾 玉山鉄二
「ノルウェイの森」を初めて読んだのは、社会人になって何年目かの夏のことだった。職場で知り合ったある女性と村上春樹の話になって、お互いまだ読んでいなくって「一緒に読み始めよう。感想を話し合おうよ。」ということになった。僕も彼女も緑と赤の2冊のハードカバーを手にした。
「どこまで読んだ?」「ええっとね。緑の部屋に・・・」
「それ以上先を言うなよ!」「私、思うのよ。直子はね・・・」
そんな会話をお互い日々楽しんでいた。ある日、僕が出先から職場に電話したとき、彼女が出た。用件を伝えた後で彼女は言った。
「・・・読み終わったよ。」
「どうだった?」
僕の問いにやや間があって彼女は答えた。
「私・・・読み終わって、・・・自殺しようかと思ったよ。」
ノルウェイの森に描かれた喪失感。 「ノルウェイの森」は読む人それぞれに心に刻まれる部分が異なる。今までいろんな人とこの本の話をしてきたけど、みんな好きな場面が違うし、様々な疑問を抱いていた。彼女は直子に感情移入したのだ。
「ねぇ、今どこにいるの?」
彼女も彼女なりに抱えているものがある・・・僕は車を停めて海を眺めながら、これまでよりも少し彼女のことを愛おしく思った。
・・・そんな昔話はさておき。「ノルウェイの森」 に対しては観る人それぞれに思い入れがある。だから今回の映画化はトラン・アン・ユン監督の見た「ノルウェイの森」。 世間では好意的な評が多いようだが、残念ながら僕にとっては期待した「ノルウェイの森」ではなかった。確かにハードカバー2冊の小説を2時間に収めるのは難しいだろう。映画は主人公ワタナベが直子、緑の間で揺れるストーリーを軸にしている。だが、物語を凝縮しているとはいえ、重要なシーン や要素が大きく欠落しているとしか僕には思えなかった。
登場人物が死なず、セックスが描かれずやや冷めた印象の初期作品とは違って、「ノルウェイの森」はその禁を破り、生きることと人を愛することに肉薄した物語だ。それ故に人は傷つくこともあり、何かを得て、何かを失うことがある。それが生きていくことだ。原作の冒頭、突然飛行機の中で流れたNorwegian Woodに悲しくなってしまうワタナベは出てこない。映画の結末であれば、結局(かなり唐突に)ワタナベは緑を選び、奇妙な三角関係が終わってめでたしめでたし。でもそれは原作の最後のページからにじみ出てくるような喪失感とはまったく違うものに感じられた。また、直子との性の関わりでは、自分を忘れられたくない一心で記憶に刻み込むかのような直子の緊張感がまったく感じられない。キズキとの関係を告白する長回しの場面はよかったが。
そして何よりも納得がいかないのが、レイコとワタナベの関係。レイコは、直子のサナトリウムをワタナベが初めて訪れたとき、女性経験の豊富な彼に嫌悪感を示す。しかしだんだんと彼を理解していく、直子を失った喪失感を共有することになるのだ。映画では、唐突にワタナベの元にやってきて「私と寝て」(この台詞は最悪)などど言う。原作でいろんな人が疑問を抱くレイコとのセックス場面は、直子のお葬式を二人でやろう、と悲しみを共有した上でのある種の「ノリ」だったはず。
「ワタナベ君、アレしようよ。」「僕も同じ事を考えていたんですよ。」
映画ではレイコが社会に復帰するための儀式として、ワタナベに「寝て」と頼んだようになっている。しかもワタナベは「本当に寝るんですか」としぶしぶ服を脱ぐ。・・・これはあんまりだ。
映画全体を包む空気感や日本の自然風景には確かにみるべきものがある。音楽もいい。しかし、これは僕の求めていた「ノルウェイの森」の映画化ではない。エンドクレジットで帰り支度を始めた映画はここ数年では初めてかも。原作に愛を感じている、少なくとも原作で感じたイメージを損ないたくないのなら、僕はお勧めしません。初日に気合い入れて観に行ったのに、ちょっと残念でした。 世界的ベストセラーだけに、原作を尊重した印象を受ける宣伝のうまさに今回は完全にやられました。もちろんひとつの解釈として 、この映画はアリなんだけどね。