◾️「ROMA/ローマ/Roma」(2018年・アメリカ=メキシコ)
監督=アルフォンソ・キュアロン
主演=ヤリッツァ・アパリシオ マリーナ・デ・タビラ
キュアロン監督作を観るのは「トゥモロー・ワールド」「ゼロ・グラビティ」に次いで3本目。「ROMA」はNetflix用に製作された映画と聞くが、この映像はスクリーンで観ないのがもったいない。
その理由は、映像があまりにも雄弁だからだ。メキシコシティで住み込みで働くクレオ、雇い主の医者の妻ソフィアとその一家が主な登場人物。彼女らの生活の様子をカメラは一歩引いて客観的に見つめ続ける。感情が高ぶる場面にクローズアップもなければ、細かくカットも割らない、違う目線で見せることもない。そのくせカメラは長回し。劇伴音楽もなく、流れるのは生活音だけ。なのにスクリーンに惹きつけられる。自宅でテレビで見ていたら、おそらく投げ出していただろう、間違いなく。
冒頭タイルの床が映され、掃除をしているであろうブラシの音が聞こえる。そこに水が撒かれて、空の様子が洗剤の泡まじりに水面に映る。低く飛ぶ旅客機が映る。この数分だけで、空港近くに密集した街の様子は映されないのに感じられる。ここでもう心を掴まれる。
不自由なく暮らしていた一家だが、クレオは付き合っていた彼氏の子供を身ごもって、今後のことで悩み始める。彼女には保険もない。妊娠を伝えたら、スラムで暮らす彼氏には冷たくあしらわれてしまう。見えてくるメキシコの格差社会。一方、雇い主側のソフィアも夫婦仲がうまくいかなくなり、出張に行ったまま夫は戻ってこない。折しも、1970年頃のメキシコは、政府に抗議する学生たちのデモが衝突にしばしば発展していた。ベビーベッドを買いに家具屋を訪れたクレオとソフィアの母は、その騒動に巻き込まれてしまう。
人の心も社会も揺さぶられるような出来事が起こっているのに、カメラは近寄らない。カメラが寄るのは、壁にぶつかる車と彼氏のフリチン武術くらいだ。キュアロン監督作「トゥモロー・ワールド」のように暴動の中を走り抜けたりはしない。病院に担ぎ込まれたクレオの様子も、冷酷なまでの長回しで写し続ける。映画のクライマックス、クレオが心情を初めて口にする海辺の印象的なシーンは、僕らはその場でクレオや一家を見守っているような気持ちにさせる。モノクロームで、盛り上げるあざとい演出もないのに胸に迫るのだ。
的外れだったら申し訳ないが、「無防備都市」「揺れる大地」「自転車泥棒」に代表されるイタリアン・ネオリアリズム映画を、当時観た感覚って、これに近いものだったんじゃなかろうか。
家族の旅を終えて、メキシコシティに戻った一家を再びカメラは長回しで捉える。クレオは洗濯物を抱えて屋上への階段を上る。飛行機が低く飛ぶ空。映画冒頭と対になるこの場面、カメラは空を見上げている。深刻な経済格差がある現実。不幸があってもクレオもソフィアも生きていくことは同じ。穏やかな空の下で洗濯物を干せる日常という小さな幸せ。カメラが上を向いて空を写すだけのラストシーンに、多くの人が前向きな気持ちを味わったことだろう。それはヒロインが立ち上がるだけなのに感動的な「ゼロ・グラビティ」のラストシーンを思い出させる。これは劇場で集中して観て欲しい。