◼️「婚約者の友人/Frantz」(2016年・ドイツ=フランス)
監督=フランソワ・オゾン
主演=ピエール・ニネ パウラ・ベーア エルンスト・ストッツナー マリエ・グルーバー
フランソワ・オゾン監督がエルンスト・ルビッチ監督のクラシック「私の殺した男」をリメイクした作品。僕はオリジナルを先に観たのだが、オリジナルにある場面、台詞をより深く掘り下げて再構築したオゾン監督のセンスに圧倒される。後半はそう来たかっ!と切ない物語にしんみりしながらも、次に何がくるのかワクワクしている自分がディスプレイの前にいる。これは映画館で没頭して観たかったかも。
第一次世界大戦の独仏戦で息子を失った老夫婦と息子の許嫁アンナ。彼女たちが住む町にフランス人の男性アドリアンがやって来る。彼は戦争で亡くなったフランツの墓に花を手向ける。フランツの母とアンナは彼を呼び出し、フランツとの関係を問いただすと、彼は友人だと答えた。息子を殺したフランス人だと嫌っていた父も彼を受け入れ、アンナも次第に好意を感じ始めていた。しかし周囲の反応は冷たい。そんな中、アドリアンはアンナに本当のことを話したい、と告げる。その真実とは。
オリジナルは彼が何のためにドイツを訪れたかは映画冒頭で明確に示される。彼の葛藤と、帰還兵の悲しみと苦しみ、そして彼がついた「嘘」を彼女がどう受け止めて「許し」を与えるか否かが描かれる。1930年代という製作時期を考えると、戦後の心の問題をここまで掘り下げていることに驚かされる秀作だ。
オゾン監督版は彼がドイツを訪れた理由をひた隠しに隠す。それ故にこの映画の宣伝や触れ込みは"ミステリー仕立て"めいたものになっていた。友人だと名乗った彼の話で家族とアンナが思い浮かべる情景は、彼とフランツが美術館を楽しんだり、バイオリンを奏でる姿。オゾン作品をあれこれ観ていると、あぁ、BL話に行っちゃうのかな…と早合点してしまうかも。問題は彼が真実を告白してからだ。アンナはそれを受け入れない。オリジナルでも簡単に受け入れて「許し」に繋がった訳ではないけれど、オゾン版はそこから先に彼女がつき続ける「嘘」に着目して、そこに切り込んでいくのだ。
映画後半は、「許し」の気持ちを込めた彼への手紙の返事が、アンナの元に返送されてしまうところから始まる。ここから先はオリジナルには登場しない展開だ。アンナはアドリアンを探すために一人パリへと旅立つ。きっと幸せになってくれると信じて送り出す老夫婦。紆余曲折を経て二人は再会するが、そこには感情を強く揺さぶる新たな展開が待っている。
前後半の対比も見事。後半はフランス国内でのドイツ人への感情が露骨に示される。フランツの父が口にする台詞はオリジナルにも出てくる。
「息子が死んでビールを飲む。フランス人は息子が死んでワインを飲む。若者たちに武器を持たせたのは誰だ?俺たち大人じゃないか。」
心を揺さぶる名言で戦争を端的に言い表している。フランス側が描かれることで、反感だけをむき出しにする戦後の状況が悲しく感じられる。そして、勧められる結婚という対比も。
この物語のフランス人男性は、真実を告げて「許し」を得たい。近づく為に「嘘」をついただけ。しかしオゾン版の女性アンナは、後半「嘘」をつき続けることになる。両親のように慕うフランツの父母を気付けたくない一心からアドリアンの真実を告げない「嘘」。それはオリジナルの彼女もそれを選んだ。しかし、アンナはさらに自分の気持ちにも「嘘」をつき続けることになる。
「"許す"と伝えるために来てくれたのに」
とアドリアンは言う。でもアンナの気持ちはそれだけではない。そこをアドリアンの家族に見透かされたアンナは、「彼を困らせないで」と言われる。「困らせているのはフランツです」と答える。それは確かに真実。でもそれは「嘘」。神父に告白するシーンがオリジナルとは違う使われ方をしていることに驚くし、「嘘」が彼女にとってどれだけの重荷になっているのかが伝わる。オリジナルへのリスペクトを感じさせる見事な改変だ。
パートカラーになっている構成は、幸福と感じられる場面に色彩がつけられているのではなかろうか。「初恋のきた道」が、愛する人がいたカラーの過去と、いないモノクロの現在に分けたのと同様の表現かと。
あの絵を見つめるラストシーン。
「生きる希望がわきます」
その言葉の真意はうまく言葉にできないけれど、きっとアンナの言葉に「嘘」はない。だって、その場面には色彩が添えられていたのだから。
第一次世界大戦の独仏戦で息子を失った老夫婦と息子の許嫁アンナ。彼女たちが住む町にフランス人の男性アドリアンがやって来る。彼は戦争で亡くなったフランツの墓に花を手向ける。フランツの母とアンナは彼を呼び出し、フランツとの関係を問いただすと、彼は友人だと答えた。息子を殺したフランス人だと嫌っていた父も彼を受け入れ、アンナも次第に好意を感じ始めていた。しかし周囲の反応は冷たい。そんな中、アドリアンはアンナに本当のことを話したい、と告げる。その真実とは。
オリジナルは彼が何のためにドイツを訪れたかは映画冒頭で明確に示される。彼の葛藤と、帰還兵の悲しみと苦しみ、そして彼がついた「嘘」を彼女がどう受け止めて「許し」を与えるか否かが描かれる。1930年代という製作時期を考えると、戦後の心の問題をここまで掘り下げていることに驚かされる秀作だ。
オゾン監督版は彼がドイツを訪れた理由をひた隠しに隠す。それ故にこの映画の宣伝や触れ込みは"ミステリー仕立て"めいたものになっていた。友人だと名乗った彼の話で家族とアンナが思い浮かべる情景は、彼とフランツが美術館を楽しんだり、バイオリンを奏でる姿。オゾン作品をあれこれ観ていると、あぁ、BL話に行っちゃうのかな…と早合点してしまうかも。問題は彼が真実を告白してからだ。アンナはそれを受け入れない。オリジナルでも簡単に受け入れて「許し」に繋がった訳ではないけれど、オゾン版はそこから先に彼女がつき続ける「嘘」に着目して、そこに切り込んでいくのだ。
映画後半は、「許し」の気持ちを込めた彼への手紙の返事が、アンナの元に返送されてしまうところから始まる。ここから先はオリジナルには登場しない展開だ。アンナはアドリアンを探すために一人パリへと旅立つ。きっと幸せになってくれると信じて送り出す老夫婦。紆余曲折を経て二人は再会するが、そこには感情を強く揺さぶる新たな展開が待っている。
前後半の対比も見事。後半はフランス国内でのドイツ人への感情が露骨に示される。フランツの父が口にする台詞はオリジナルにも出てくる。
「息子が死んでビールを飲む。フランス人は息子が死んでワインを飲む。若者たちに武器を持たせたのは誰だ?俺たち大人じゃないか。」
心を揺さぶる名言で戦争を端的に言い表している。フランス側が描かれることで、反感だけをむき出しにする戦後の状況が悲しく感じられる。そして、勧められる結婚という対比も。
この物語のフランス人男性は、真実を告げて「許し」を得たい。近づく為に「嘘」をついただけ。しかしオゾン版の女性アンナは、後半「嘘」をつき続けることになる。両親のように慕うフランツの父母を気付けたくない一心からアドリアンの真実を告げない「嘘」。それはオリジナルの彼女もそれを選んだ。しかし、アンナはさらに自分の気持ちにも「嘘」をつき続けることになる。
「"許す"と伝えるために来てくれたのに」
とアドリアンは言う。でもアンナの気持ちはそれだけではない。そこをアドリアンの家族に見透かされたアンナは、「彼を困らせないで」と言われる。「困らせているのはフランツです」と答える。それは確かに真実。でもそれは「嘘」。神父に告白するシーンがオリジナルとは違う使われ方をしていることに驚くし、「嘘」が彼女にとってどれだけの重荷になっているのかが伝わる。オリジナルへのリスペクトを感じさせる見事な改変だ。
パートカラーになっている構成は、幸福と感じられる場面に色彩がつけられているのではなかろうか。「初恋のきた道」が、愛する人がいたカラーの過去と、いないモノクロの現在に分けたのと同様の表現かと。
あの絵を見つめるラストシーン。
「生きる希望がわきます」
その言葉の真意はうまく言葉にできないけれど、きっとアンナの言葉に「嘘」はない。だって、その場面には色彩が添えられていたのだから。