たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

トケイソウ(時計草)

2021年05月17日 20時33分45秒 | 爺さんの備忘録的花図鑑

散歩・ウオーキングの途中、道端や公園、民家の庭先等で見掛ける花を
やたら コンデジで カシャ、カシャ、撮って帰ることが
習慣になってしまっている、花に疎い爺さん。
そのほとんどは、花名も知らず、分からず、忘れてしまい、
毎度 君の名は?・・を繰り返しているが、
後日、撮った写真を見ると
「これは あそこに咲いていた花だ・・」等と 
たいがい見当がつくから不思議なことだと思っている。
ただ 中には 
「どこで咲いていたっけ?」、
「あそこかな?」等と 何回通ってみても、一向に見当たらない花も有り、
その時以後、1回も見掛け無い花も有る。
「トケイソウ(時計草」も そのひとつだ。
もちろん、有名な花の公園等にでも出掛ければ、
容易に出会えるはずの花なのだろうが、爺さんにとっては 貴重な写真、
外付けHDから 引っ張り出してみた。

撮影日は 3年前の2018年7月13日となっており、 
前後の写真から だいたいあの辺?・・と分かっているが 
その後 一向に見掛けることが出来ないでいるトケイソウ(時計草)


トケイソウ(時計草)

トケイソウ科、トケイソウ属、蔓性植物
   3つに分裂した雌しべが、時計の長針、短針、秒針のように見えることから
   付けられた花名。
   英名 パッションフラワー(Passion Flower)
   「Passion」は「情熱」の意味ではなく、
   「キリストの受難」を意味している。
   16世紀、中南米に派遣されたイエズス会の宣教師が 
   この花を「十字架の花」と信じ、キリスト教布教に利用、
   キリストの受難を象徴する姿をしていることから
   「Passiflora」(キリスト受難の花)と呼ばれるようになったという。
   別名 ボロンカズラ(梵論葛) 
原産地 中央アメリカ、南アメリカ等の熱帯、亜熱帯地域
花色 白、ピンク、紫、青 等
開花期 5月~10月頃
花言葉 「聖なる愛」「信仰」「宗教的熱情」


 

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「ワテの愛する季節どす」・まんがゼミナール「枕草子」その4

2021年05月17日 13時42分39秒 | 読書記

足腰大丈夫な内に出来る限り、不要雑物処分・身辺片付け整理をしよう等と思い込んでからすでに久しいが、正直なかなか進んでいない。それでもここ2~3年には、押し入れや天袋、物置、書棚等に詰まっていた古い書籍類をかなり大胆に処分してきた。ただ、中には「これ、面白そう・・」等と目が止まり、残してしまった書籍もまだまだ結構有る。その中に 漫画家赤塚不二夫著、元東京学芸大学附属高等学校教諭石井秀夫指導の古典入門まんがゼミナール「枕草子」(学研)が有る。多分、長男か次男かが、受験勉強中に使っていた「枕草子」の解説本・参考書の一つのようだが、錆びついた老脳でもなんとか読めそうな、まんがで描いたくだけた内容、その内いつか目を通してみよう等と仕舞い込んでいたものだ。ながびく新型コロナ禍、不要不急の外出自粛中、ふっと思い出して、やおら引っ張りだしてみた。当然のこと、本格的な「枕草子」解説本、参考書とは異なり、限られたサワリの部分に絞ったものであるが、学生時代に多かれ少なかれ齧っていたはずの日本の代表的な古典、清少納言の「枕草子」も、ほとんど覚えていないし、「古典」に疎く、苦手な人間には、十分楽しめそうで、御の字の書である。(以上 過去記事コピペ文)


「ワテの愛する季節どす」・まんがゼミナール「枕草子」その4

第130段 「九月ばかり、夜一夜」
晩秋の雨の後の庭の情景が、実に印象的に描かれている段。
特に蜘蛛の巣の破れ残ったところに露が煌めいている様子に目を向け、まるで真珠を貫いたような情景だと描写するあたりは、いかにも清少納言らしい細やかな描写である。。

(九月の頃、一夜降り明かした雨が 朝には止んで・・)
わあ! 朝日が、パッと華やか・・・、
前栽の露もこぼれるばかり・・・、
透垣の羅文や、軒の上にかけた蜘蛛の巣の破れのないところに
白い玉を連ねたようなこそ・・、
いみじくも、おかしけれっ!、
ほんまに、すてきや、
少し、日が高くさし昇ると
えらい重たげやった萩の露が落ちて、枝が動き、
人が手を触れたでもあらへんに、
ふっと跳ね上がる。
おもろいわあ。
(つまんない。あんなもん、飽きずに眺めちゃってサ)
と他人が言うのも面白いどすわ。
わあ!、いみじくもおかしけれ!。
(こないなものは つゆ、おかしからじ)
他人の気持ちとして、少しも面白くあるまいと思うことこそ、
またおかしいわ。


原文だよーん

九月ばかり、夜一夜降り明かしつる雨の、
今朝は止みて、朝日いとけざやかにさし出でたるに、
前栽の露こぼるばかり濡れかかりたるも、いとおかし。
透垣の羅文、軒の上に、かいたる蜘蛛の巣のこぼれ残りたるに
雨のかかりたるが、白き玉をつらぬきたるやうなるこそ、
いみじうあはれにをかしけれ。
少し日たけぬれば、萩などのいと重げなるに、
露の落つるに、枝のうち動きて、人も手触れぬに、
ふとかみざまへ上がたるも、いみじうをかし。
といひたることどもの、
人の心にはつゆをかしからじ、
と思ふこそ、またをかしけれ。

(注釈)
九月頃、一晩中降り通した雨が 
今朝は止んで、朝日が実に鮮やかに照り出した時に、
庭の植え込みの草木の露がこぼれ落ちるほどに濡れるかかっているのも、とても風情がある。
透垣の上の羅文や、軒の上に張り渡した蜘蛛の巣がこわれて一部分残っているところに
雨の降りかかっているのが、まるで真珠を糸で貫き通したように見えて
それこそ、とても情趣が有って面白い。
少し日が高くなってくると、萩等がとても重そうになっているが、
その露が落ちると、枝が自然と揺れ動いて、誰も手を触れないのに、
すっと
上の方へ跳ね上がったりするのも、ひどく趣が有る。
とある人に言ったりしたことなどが、
他人の心には少しも面白くもあるまい・・
と思ったりすると、
それがまた情趣深いことである。


 

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「中学生日記より」その31(再)

2021年05月17日 06時57分04秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のこと。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると すっかり喪失してしまっていた記憶が 断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。(以上 コピペ文)


その31 「流行性感冒と学校劇ピノチオ」

昭和32年(1957年)1月26日(土)、天気 晴のち曇、

◇暴雪(豪雪?)休業(休校)兼 流行性感冒(感染)防止休み
 一昨日からだが、今日朝になって、風邪がひどくなり、食事もとらず
 二階で寝たが 10時頃 いやんになって(嫌になって・飽き飽きして)
 下へきた(下の部屋に降りてきた)。
 祖母(が)、かめのこ(亀の子)などをかけて、こたつで寝ていた。
 僕よりも風邪がひどいらしい。
 僕は、母が村へ(村落の中心部へ)行っていたので
 鶏(にわとり)の餌(えさ)、山羊(やぎ)の餌(えさ)をやり
 祖母にふとん(布団)を、引いてやり(敷いてやり)、言うことを聞いた。
 劇「ピノチオ」、キャク本(脚本)(を)、
 正君(が)、学校から持ってきてくれた。
 学校劇の話(が)あった(有った)(ようだが)、休んだ。

每年12月頃~2月頃には、日本海を渡ってくる湿って冷たい季節風が日本列島の背骨にぶるかることで大雪をもたらすことで知られる北陸、今も昔もさほど変わらない気象現象ではあるが、昭和30年代頃にはまだ、今日のような除雪、消雪対策がなされておらず、M男が暮らしていた北陸の山村等では、登下校に困難になる程の積雪時期が有り、そんな時期に「豪雪臨時休校」みたいなものが有ったような気がする。豪雪に重なって、今でいうインフルエンザ(流行性感冒)が流行っていたのだろうか、感染防止も兼ねて、その日は学校は休校だったようだ。
風邪、扁桃腺炎、発熱等々で 頻繁に学校を休む、ひ弱な子供だったM男も、前前日から風邪の症状がひどく、この日、家族から2階で大人しく寝ていろ・・と指示されたようだ。
(当時の田舎の暮らしでは 早朝から夕方まで、近所の人達が入れ代わり立ち代わり頻繁にやってきて、大きな声で長話等するため、1階に寝ていたのでは、落ち着いて寝てもいられなかったため)
その日、学校で、学芸会の演劇の話(打ち合わせ)が有ったようで、M男は休んだ(欠席した)ようだ。
ただ 10時頃になるといやんになって(嫌になって、飽き飽きして)、起き出してしまったようだ。
祖母が かめのこ(亀の子?)などを掛けて炬燵で寝ていた・・・と書いてある。

M男達が 「かめのこ」と言っていたのは 亀の甲羅程の小さな布団、赤ちゃん布団のようなものだったが、祖母が、よく、こたつに足を入れ、かめのこを掛けて横になっていた情景が思い浮かんでくる。
祖母も風邪でダウンしてしまっていたようで、母親が村落の中心部へ行って留守だったため、M男が、祖母に布団を敷いてやり休ませ、甲斐甲斐しく世話をし、鶏や、山羊の餌やりもしてやったようだ。
学校劇「ピノチオ」の脚本を 正君が学校から貰ってきてくれた・・と書いて有る。
近所の従兄弟で同級生の正君は、ガイな子供(元気で逞しい子供)だった。大雪の中を登校し、学校劇の話(打ち合わせ)に出席し、M男の分の脚本も貰ってきて、わざわざ届けにきてくれたようだ。


当時 M男の通っていた北陸の山村の1学年1クラスの小さな小学校中学校併設学校では 秋の「文化祭」の他に 3学期に「学芸会」なる催しを行っていたような気がする。学年毎に、あるいは合同で、合唱や演劇等を父兄に披露するものだったが その年は 中学生全員参加による ミュージカル風劇「ピノチオ」だったようだ。
演出・指導は 国語担任教師、H教頭で、後年になって知ったことだが、地元の草の根演劇指導もしていた、眼光鋭い男性教師だった。トニー・谷を細くしたような容貌、黒メガネで、練習中に、メガフォンで厳しくどなり付ける熱血教師、ビビったものだった。恥ずかしがり屋、引っ込み思案だったM男のこと、その劇でも、その他大勢組だったか 合唱部隊だったか、裏方だったか、まるで記憶に残っていないが、数年前に取り壊した実家片付けの際、わら半紙にガリ版刷りされたボロボロの「ピノチオ 3幕」の脚本が押入れの奥から出て来て、記憶の欠片が炙り出されたものだった。


 

 

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