野菜収獲係の妻、
夕方、畑へ イチゴを採りに出掛けたが
イチゴは 完全にお終いに近づいており、クズばかり、
キュウリを 3本 採ってきた。
まだ小さにのに・・・、
今年のキュウリ、初収獲だ。
昨年より 1週間程 早いのかも知れない。
夕食は 「生キュウリに味噌で ビール」・・・になりそうだ。
西の空が焼けている。
斯々然々、今日も 1日、あっという間に過ぎてしまい・・・、
野菜収獲係の妻、
夕方、畑へ イチゴを採りに出掛けたが
イチゴは 完全にお終いに近づいており、クズばかり、
キュウリを 3本 採ってきた。
まだ小さにのに・・・、
今年のキュウリ、初収獲だ。
昨年より 1週間程 早いのかも知れない。
夕食は 「生キュウリに味噌で ビール」・・・になりそうだ。
西の空が焼けている。
斯々然々、今日も 1日、あっという間に過ぎてしまい・・・、
当地、今日も 1日中、好天。
本格的な梅雨に入る前に 梅の実を採ってしまわないと・・・・、
午後になって、やおら重い腰を上げ、
脚立ハシゴ、ノコギリ、刈り込み鋏、鉈、を 用意、
取り掛かった。
なにしろ、猫額庭のフェンス際で大きくなり過ぎて持て余している梅の木、
每年のこと、実を採りながら、大胆に剪定するのが我が家流
硬い老体、へっぴり腰で 高所作業、自他共、ヒヤヒヤものである。
確か、昨年も、一昨年も まるで実が生らず、
生っても、実る前に落ちてしまい、
梅の実収獲は ゼロだったような気がするが
今年は なんと狂ったように鈴なり・・・、
しかも、虫や病気の被害もなく、きれい・・、
結果 12kgも 採れてしまった。
先日 スーパーで売場に並んでいた梅の実を何の気無しに見たが
1袋(?kg)、1000円位の値段だったような気がする。
すると 5,000円~10,000円の値打ち?、あるのかな。
自家製梅酒の在庫は まだうんざりする程有るし、
今年は 久し振りに梅干し作りになりそうだ。
ただ 多過ぎ、
早速 妻は お裾分けの段取りをしているようだ。
猫額庭とて、どうしても枝葉が隣家の敷地に張り出してしまう梅の木。
顰蹙を買っているのではないかと、いつも気にしているが、
今日も 隣家の奥さんが出てきて、
「枝が伸びていても 一向に構いませんよ」
等と言ってはくれたが、甘える訳にもいかない。
「梅の木よ、許してたもれ!」
「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿、桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿・・・・・」
念仏?を唱えながら 今年も バッサ、バッサ 剪定、
ほとんど 丸坊主になった梅の木。
切り落とした枝葉の始末がまた大変、鋭いトゲに悩まされながら、
一定の長さに揃え、束にして、市のゴミ回収に出す準備をする。
足、腰、痛!、痛!、
やれやれ、これにて 1件落着。
ガクアジサイ
カシワバアジサイ(柏葉紫陽花)
ニゲラ(黒種草)
キウイの花、
「中学生日記より」
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のこと。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると すっかり喪失してしまっていた記憶が 断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。(以上 過去記事コピペ文)
その32 「学校植林」
昭和31年(1956年)4月17日(火) 天気 晴のち雨
1、(朝)雨のが降りそうな天気だったけど、みんな(中学生やPTA)が
(山に)集まって(植林を)やり始めた。
そしてなえ(苗)をかついで(担いで)、植えるところまで行くと、
と中(途中)から雨がふり(降り)出し、またたくまに(瞬く間に)
どしゃぶり(土砂降り)になった。
完全に出来ないまま(植林は中止となり)
10時ごろ(頃)散れた(解散した)。
2、昼からは(午後には)、からりと晴れて 宏(弟)を連れて、
美山の祭りに行った。
3、PTAの人達といっしょに。
その日は、「学校植林」をする日で、中学生全員とPTA(生徒の父母)が、朝早く、直接 山に集合し、山裾に1列に並び 斜面を上部に向かって、一斉に、掘っては植え、掘っては植えの植林作業を開始したようだが、途中で土砂降りの雨になって、作業は中止となり、解散したようだ。
皮肉にも、午後は晴れ上がって、M男は弟を連れて、桜満開の山の公園の祭り見物に出掛けたようだ。多分、「学校植林」のため、野良仕事を休みと決めた近所の大人達も、中途半端になって、子供と一緒に祭りに出掛けたのだと思われる。
「学校植林」?
終戦後、全国で禿山化した山がどれだけ有ったのかは知らないが、そうした山にスギ(杉)やカラマツ(唐松)等の苗を植林する運動が繰り広げられていた時代だったのではないかと思われる。記憶定かではないが 当時「学校植林コンクール」等という催しが有ったように思う。 M男の通っていた中学校は これに参加し、県単位だったのか、全国規模だったのか記憶無いが、その実績に対して表彰され、校長が 朝礼で、「こんな小さな学校でも、表彰された」等と、誇らしげに報告していた記憶は有る。禿山を抱えていた村と、学校植林に積極的な校長が意気投合して行われていたのかも知れないが、「学校植林」も教育の一環として考えられていた節もある。M男達が植林したのは カラマツ(唐松)で、後年、見事な唐松林になっていたことを知っているが、時代が変わり、利用価値が無いまま伐採され、その山全体が開発され、現在は運動公園になっている。
「学校植林コンクール」?
ネットで調べてみると、現在の公益社団法人国土緑化推進機構の前身である「森林愛護連盟」と「国土緑化推進委員会」が中心となって 1950年度から実施された活動の一環、「全日本学校植林コンクール」だったようだ。
植林したカラマツ(唐松)が 成長する前の山は
冬期、子供達の 絶好の遊び場(スキー場)だった。
滑り降りては エッチラオッチラ、登り、また滑る。
飽きずに遊んだものだ。
当時は、スキー板に取り付けた金具とフィットと呼んでいた留め具で
長靴に掛けて滑る類だったが、
転んだりして スキー板が外れると最悪、
スキー板を拾いに行くのが一苦労だった。
(家にカメラ等無かった時代、誰かに撮って貰った貴重な写真)