たけじいの気まぐれブログ

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今はただ 思ひ絶えなむとばかりを 人づてならで いふよしもがな

2023年11月30日 20時22分41秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・になっているところだ
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、2~3年前、「春」、「夏」、「秋」、「冬」、季節を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー 「懐かしい小倉百人一首」に書き留めたが、続いて、最も数の多い、「恋」を詠んだ歌を取り上げて、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにしている。
しばらく中断していたが、秋も深まりつつある季節、再開することにした。


百人一首で「恋」を詠んだ歌 その39

今はただ 思ひ絶えなむとばかりを
人づてならで いふよしもがな

出典
後拾遺集(巻十三)

歌番号
63

作者
左京大夫道雅

歌意
今はひたすら、あなたのことを諦めてしまおうと、
ただそれだけを、人づてでなく、
直接逢って言う方法が有ると良いのになあ。

注釈
「今はただ」は、「今はひたすら」「今となっては、もう」の意。
「思ひ絶え」は、「思ひ絶ゆ」の連用形。
「ばかり」は、「・・・だけ」の意。限定する副助詞。
「人づてならで」の「人づて」は、人に頼むこと。
「なら」は、断定の助動詞。「で」は、打ち消しの接続助詞。
「よしもがな」の「よし」は、方法のこと。
「もがな」は、「したいものだなあ」という願望を表す終助詞で、
詠嘆の意も含まれている。

「後拾遺集」の詞書(ことばがき)によると、
三条天皇の皇女当子内親王との恋が、天皇の怒りにふれ、
絶対に逢うことが出来なくなった時に作った歌であることが分かり、
せめて別れの言葉だけでも、一目逢って伝えたいという
禁じられた恋の苦悩を歌った哀歌で有る


左京大夫道雅(さきょうのだいぶみちまさ)

藤原道雅(ふじわらのみちまさ)
藤原伊周(ふじわらのこれちか)の子。
関白藤原道隆(ふじわらのみちたか)の孫。
従三位左京大夫に昇進したことで、左京大夫道雅と呼ばれた。
歌人としては、目立つ存在ではなく、悲哀の歌が多い。


狂歌

今はただ おもゆも食べぬとばかりを
お目にかかりて 言うよしもがな

重湯も喉に通らない程の恋煩いをしているということを
直接逢って話したいものだ・・・の意。


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)

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淡いオレンジ色?、トキ色?のシャコバサボテンも咲き始めて・・、

2023年11月30日 08時52分46秒 | 暮らしの記録

「オレンジ色?のシャコバサボテンも、咲きだしたよー」
「花と庭の係」妻から、声が掛かった。
寒冷対策で、ベランダから室内に運び込んでいる鉢植えのシャコバサボテン数鉢の内のひとつに、他のシャコバサボテンとは違う色の花を咲かせるシャコバサボテンが有る。
白色でもなく、淡いオレンジ色?というのか、トキ色?というのか、
なんと表現して良いのか分からない色合いのシャコバサボテンだ。
今のところ、まだ1輪だけだが、開花した。
毎年、だいたい、12月中旬以降、
濃いピンクのシャコバサボテンが満開になった後頃から、
咲き始めるような気がしているが
今年は、ちょっと早いようだ。

 

濃いピンク色のシャコバサボテンも、華麗?で良いが、
どちらかというと、こちらのシャコバサボテンの方が、気品?有り、
写真写りも良し?、
好みになっている。


振り返り記事
濃いピンク色のシャコバサボテンの咲き始め
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