長男、次男がまだ保育園、小学生だった頃は、夫婦共働きで、時間的余裕も、精神的余裕も、経済的余裕も無い自営業を続けていた時代ではあったが、せめて子供達の思い出になれば・・・との思いが有って、春、秋の行楽シーズン等の休日には、忙中敢えて閑を作り、強引に?、家族で周辺の低山を、よく歩き回っていたものだった。その後、次男が小学生になった頃からは、「せめて毎年1回、夏休みには、家族で登山しよう」と決め込んで、尾瀬や八ヶ岳や白馬岳、乗鞍岳、木曽駒ケ岳、仙丈岳等に出掛けたものだったが、それまで、登山の経験等ほとんど無く、体力にも自信が無く、山の知識情報にも疎かった人間が、よくもまあ思い切って出掛けたものだと、後年になってからつくづく思ったものだった。息子達が巣立ってからも、その延長線で、夫婦で細々、山歩きを続けてはいたが、数年前に完全に仕事をやめてからは、時間が出来たものの、今度は気力体力が減退、あの山もこの山も、今や、遠い思い出の山となってしまっており、今となっては、あの頃、思い切って、登山を敢行していたことを、本当に良かったと思うようになっている。ブログを始めてからのこと、そんな山歩きの思い出を、備忘録、懐古録として、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込んだり、古い写真は、「デジブック」にし、ブログに貼っていたものだが、その「デジブック」が終了したことで写真がブログから消えてしまったこともあり、改めて、古い写真を引っ張り出して、過去の記事をコピペ、リメイク(再編集)してみようと思っているところだ。昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながら・・・・。
古い写真から蘇る思い出の山旅・その38
「甲斐駒ヶ岳・仙丈ヶ岳」(再)
(1)
もう24年も前になる、1999年8月に、妻と次男と三人で、「甲斐駒ヶ岳・仙丈ヶ岳」を訪れたことが有った。
当時は、まだ、バカチョンカメラ(手の平サイズのフィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、フィルム代を気にしながら撮った写真は、その都度、同時プリントし、アルバムに貼っていたものだった。そんな拙劣写真をスキャナーで取り込み、「デジブック」にし、ブログ・カテゴリー「山歩記」に、書き留めたりしていたが、その「デジブック」が、2020年3月に廃止されてしまい、ブログで、振り返って、写真を見ることが出来なくなってしまったため、改めて、外付けHDから、写真を引っ張り出して、リメイク、再度、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き留め置くことにした。ほとんど記憶曖昧になっていても、写真やメモを見ると、あの時、あの場所の情景が蘇ってくるから不思議である。
深田久弥著 「日本百名山」
「甲斐駒ヶ岳(かいこまがたけ)」
(一部抜粋転載)
東京から山の国甲斐(かい)を貫いて信州に行く中央線。私たち山岳宗徒にとって最も親しみ深いこの線路は、いったん甲府盆地に馳せ下った後、今度は釜無川(かまなしがわ)の谷を左手に見下ろしながら、信州の方へ喘ぎながら上って行く。さっきまで遠かった南アルプスが、今やすぐ車窓の外に迫ってくる。甲斐駒ヶ岳の金字塔が、怪異な岩峰摩利支天を片翼にして、私たちの眼をおどろかすのもその時である。汽車旅行でこれほど私たちに肉薄してくる山もないだろう。釜無川を距(へだ)てて仰ぐその山は、河床から一気に二千数百メートルも突きあげているのである。
日本アルプスで、一番代表的なピラミッドは、と問われたら、私は真っ先にこの駒ヶ岳をあげよう。その金字塔の本領は、八ヶ岳や霧ヶ峰や北アルプスから望んだ時、いよいよ発揮される。南アルプスの巨峰群が重畳(ちょうじょう)している中に、この端正な三角錐はその仲間から少し離れて、はなはだ個性的な姿勢で立っている。まさしく毅然という形容に値する威と品(ひん)をそなえた山容である。
日本アルプスで、一番奇麗な頂上は、と訊かれても、やはり私は甲斐駒をあげよう。眺望の豊かなことは言うまでもないとして、花崗岩の白砂を敷きつめた頂上の美しさを推したいのである。信州ではこの山を白崩山(しろくずれやま)と呼んでいたが、その名の通り、遠くからは白砂の峰に見えるのである。私が最初にこの峰に立った時は、信州側の北沢小屋から仙水峠を経、駒津峰を越えて行った。六万石と称する大きな岩の傍を過ぎると、甲斐駒の広大な胸にとりつくが、一面に真っ白な砂礫(されき)で目映ゆいくらいであった。九月下旬のことでその純白のカーペットの上に、所どころ真紅なクマコケモモが色彩をほどこして、さらに美しさを添えていた。ザクザクと白い砂を踏んで、頂上と摩利支天の鞍部へ通じる道を登って行くのだが、あまりにその白砂が奇麗なので、踏むのがもったいないくらいであった。南アルプス中で、花崗岩の砂礫で美しいのは、この甲斐駒とお隣の鳳凰山だけである。
(中略)
わが国には、駒ヶ岳と名のつく山が多いが、その筆頭は甲斐駒であろう。西にある木曽駒ヶ岳と区別するために、以前は東駒ヶ岳と呼ばれたが、今は甲斐駒で通っている。山名の由来は、甲州に巨摩郡、駒城村などの地名のあるところから推しても、かって山麓地方に馬を産する牧場が多かったので、それに因んだものと思われる。
甲斐駒ヶ岳は名峰である。もし日本の十名山を選べと言われたとしても、私はこの山を落とさないだろう。昔から言い伝えられ崇(あが)められてきたのも当然である。この山を讃えた古い漢詩を一つ最後にあげておこう。「駒ヶ岳ヲ望ム」と題し、僧海量の作である。
甲斐ニ連綿トシテ丘壑(きゅうがく)重ナル
雲間独リ秀(ひい)ズ鉄驪(てつり)ノ峰
五月雪消エテ絶頂ヲ窺(うかが)エバ
青天ニ削出ス碧芙蓉(へきふよう)
言うまでもなく鉄驪(てつり)ノ峰とは甲斐駒のことである。これは甲州側から咏じたのだが、信州側からすれば、碧芙蓉でなく白芙蓉ということになろうか。
山行コース・歩程等
1日目 北沢峠→北沢長兵衛小屋→仙水小屋→仙水峠→駒津峰→六万石→甲斐駒ヶ岳山頂→
摩利支天分岐→六万石→駒津峰→双児山→北沢峠→大平小屋(泊)
(標準歩行所要時間 約7時間30分)
2日目 大平小屋→馬ノ背ヒュッテ→仙丈小屋→仙丈ヶ岳山頂→小仙丈ヶ岳山頂→大滝ノ頭→
藪沢分岐→北沢峠
(標準歩行所要時間 約6時間40分)
(昭文社の「山と高原地図」から拝借)
1日目
当時は、山梨県側、マイカーでも、南アルプス林道を広河原まで、入れた時代だった。
真夜中に自宅を出発し、中央自動車道をひた走り、危険箇所多い南アルプス林道を慎重に進み、まだ暗い4時頃に、広河原に到着したようだ。夏山シーズン真っ只中とあって、予想通り、河原の凸凹の広い駐車場もほぼ満車状態で、なんとか駐車出来た感じだった。
広河原から北沢峠に向かう芦安村営バスの始発時刻は、6時50分で、すでに、始発に乗車するハイカーの長蛇の列が出来ており、一瞬ぎょっとなったが、増車された4台のバスに、なんとか詰め込み乗車出来た。広河原から北沢峠までのバス所要時間は、約25分。
7時15分頃には、北沢峠に到着、直ぐに出発したが、
先ずは、北沢長兵衛小屋前で一息つき、調整、仕切り直し。
北沢長兵衛碑とタカネビランジ 北沢長兵衛小屋とヤナギラン
7時30分頃、北沢長兵衛小屋を出発したようだ。
冷気を吸い込み、沢沿いの登山道をゆっくり登り、
8時30分頃、仙水峠(標高2,264m)に到着。
大休憩・・、
ガスが掛かり、摩利支天も見え隠れ、
仙水峠から駒津峰は、標高差500mの急登、
標高を上げるに従って、展望が良くなり、
鳳凰三山、地蔵岳のオベリスクが見られ・・・、
摩利支天が目の前に・・・、
樹林帯から、次第にハイ松帯の急登、
気温上昇、うだる暑さに喘ぎ、喘ぎ、
10時15分頃、駒津峰(標高2,752m)に到着
六万石
トウヤクリンドウ
タカネヒゴタイ
12時頃、予定よりかなり遅れて、甲斐駒ヶ岳山頂に到着。
標高2,965.6m、2,966m、2,967m、正しいのは?
山頂は、濃いガスに覆われており、
残念ながら、お目当ての大展望は叶わず。
30分程、山頂で休憩後、往路を戻る。
駒津峰まで戻り 双児山(標高2,649m)を経て北沢峠までの長い道程を、
時間を気にしながら、ひたすら下り続ける。エッサ、ホイサ、エッサ、ホイサ、・・
北沢峠に到着が、16時頃、
大平山荘まで、あと一歩き、
なんとか、歩き切り、
標高1,960mに有る山小屋、大平山荘(おおだいらさんそう)に着いたのが、
16時15分、予定した到着時刻より、2時間程遅れてしまった。
仙水峠から駒津峰への急登でバテてしまい、時間を食ったことが原因だった。
真ん中に土間の通路が有る、食堂兼宿泊所、1部屋の山小屋、
夕食は、17時からだったが、長テーブルを並べる作業から、料理を回す作業、食器片付け作業等、ほとんど、宿泊者全員でする山小屋、家庭的と言えば家庭的な山小屋だった。
18時には、宿泊者全員が屋外に退出させられ、スタッフが手際良く布団を敷き、
すべて、小屋主の号令で動かされる光景に、なんとも修学旅行の生徒になったような気分で
笑いがこみあげたものだ。悪い印象ではなかったが、それまでの山小屋には無い、変わった雰囲気の山小屋だった気がしている。
(つづく)