台本、締め切り過ぎて5日!もう一息、あと少しだから、勘弁してくれぇぇぇ!
満州に慰問に出かけた旅一座が、抗日武装勢力の襲撃にあって、孤立し、崩れ落ちそうな荒野の一軒家に隠れて救援を待つ、これが大筋。その民家、不思議な力を持っているようで、次から次と、いろんな人が立ち寄る。ちょっと、この辺がご都合主義臭いけど、まっ、いいでしょ。
山場は幾つも用意してある。昨日はその一つ、軍の慰安婦に売られた女が、必死の逃避行を敢行するシーンを書いた。世の中、意に反した従軍慰安婦なんてなかった、居たのは金目当ての売春婦だけ、みたいな歴史歪曲がぐんぐん進んでるからねぇ、ここは一つガツンと正義の鉄拳、おっと違った正史の一撃、食らわせないといけないって思ったわけよ。あいちトリエンナーレの問題だって、きっかけは河村名古屋市長の誤った歴史認識に端を発しているわけだから。
ただ、芝居は論文や意見発表とは違う。生身の人間の生きざまを通して、観客に迫らにゃならない。その工夫が、一人の娘の転落と起死回生の脱出劇となったわけだ。映画とか劇画とか小説なら、カット割りして、大筋から離れ、異時間、異空間の出来事を描くこともできる。まあ、舞台でだって出来ないけじゃないが、ころころシーンが入れ替わる芝居にゃしたくない。一場面で時間経過も一つながりで行く、これが今回のやり方だ。
と、なると、娼婦や慰安婦としての屈辱の年月と、そこからの脱出劇は、女の生々しい記憶の言葉として語らせるしかない。で、これを書いた。長い!やたら長くなった。びっしり2ページ分、合いの手など一切入らず、語り切る。女の姿を外側からリアルに映すてのも、詰まされるものがあるが、セリフで語り切るのには、また違った切迫感がある。最近はあまり流行らないやり方かもしれないが、ある意味、演劇の醍醐味かも知れない。一人芝居の魅力なんて、この長セリフに支えられてるわけだし。
ただ、これをしゃべる役者は大変だろう。やり甲斐はあっても、一人で5分以上も場を仕切るてのは、相当の技量が必要だし、それ以上に緊張感を持続するかなりの精神的エネルギーが求められるだろう。台本貰って、このセリフ見た時の役者の途方に暮れる顔か目に浮かぶよ。
さらに、今日はもう一つ長セリフを書かにゃならん。日本人になれることを信じて皇軍兵士となった朝鮮人青年の挫折、その痛恨の独白だ。これもまた、歴史修正主義に対する反撃として、多くの人に知ってもらわねばならぬ過去の真実だ。朝鮮が植民地ではなかった、あるいは、日本の統治に感謝していた、などと言う身勝手認識、これが今の日韓軋轢のベースになっているからだ。
と、書いてくると、ずいぶん、思想的な主張そのままのお堅い芝居に感じられるかもしれないが、そこは菜の花座、歌に踊りに漫才に大いに笑って涙する仕上がりになっているので、ご安心。そうそう、ラストにはもっともっと衝撃のシーンも用意している。おっと、これも今日、明日には書かにゃならんのだった。