昨日の続きだ。一部切り取ったので、著者(ブレイディみかこ)の言いたいことから、ちょい外れてしまった。
結局彼女が言いたかったのは、イギリスの労働者階級は度重なる緊縮財政と新自由主義に痛めつけられ厳しい暮らしと経済的不平等を、長年強いられている。そんなこれまで、そして今への拒絶がEU離脱・ブレグジット賛成につながったのだってこと。EU離脱支持は決して移民差別の排外主義に発するものじゃない、移民とは人種の違いを超えて労働者としてともに戦っていくことが必要だって主張なんだ。そして、それを実現して行くには、「為政者の思惑に踊らされて、お互いを敵にしてはいけない」。異なる人たちの立場を理解し主張に耳を傾ける、それが、シンパシー(共感・共振)を越えて、エンパシー(知的に理解する力)の重要さの提案につながっている。と、こういうことだ。
それにしても、と考えるのだが、ここ日本ではどうなんだ?
いったいどこに行ってしまったんだろう、「労働者階級」は?貧富の差はますます大きくなっていて、間違いなく暮らすにかすかすの人たちはかなりの比率で存在する。数値としては現れて来る貧困者。でも、そんな人たちの顔が、暮らしが見えてこない。声もマスとしては聞こえてこない。SNSで、たまに見かけるつぶやきも、ほんの一握りの人たちで、この層にいる多くの人たちはじっと沈黙を保ったままだ。政権の支持率のアンケート数値にも反映されない。たしかに今は大きく下落し政権支持率だが、それはコロナの影響だ。一段落すれば、また政治へのNOは減って行くのだろう。
ぎりぎりながらも、そこそこ暮らせる日本のあり方、これが一番の問題のように思う。テレビがあり、スマホを持ち、コンビニがある。さらには、とことん切り詰めたファストフードの店があり、100均がある。この「そこそこ裕福」の社会、B級グルメ礼賛の社会のあり様が、それ以上を望む想像力を奪っている。切り詰められた最低賃金でも、先々不安の非正規でも、結婚も出来ぬ低収入でも、ぎりぎり生きていければ、我慢できる。贅沢は言わない。
そんなの違う!っと声を上げ、止まる指を掲げる人も組織も少数だ。入って来る情報は、テレビと動画ばかり。それがどんなに自分の暮らしから外れた世界の話しでも、なんとなく取り込まれていく。今がそれなりに過ごせれば、先のことは考えない。いや、思い描くきっかけがない。下書きが存在しない。手本がない。そこがイギリスの労働者階級との違いだ。彼らには、失われつつあっても、自分たちなりの暮らしのスタイルがある。独自の価値意識がある。だから、政治に対しても激しく否を突きつけられる。自分自身を照らす鏡を持たないこの国では、己の貧困も見えてこない。
だが、コロナが、そんなそこそこ幻想を打ち砕いた。アッという間に、滑り落ち、転がり落ちて路上生活へ。果ては、命さへ投げうつ最果てに一気に行きついてしまった。気づけば、荒海に板切れ一枚、必死で縋る暮らしだ。頼るべき命綱は投げられない。なのに、テレビでは、リモート暮らしを豊かに!などと能天気だ。
これが今、この国の現実。
風波に翻弄される人々に、くっきりと、その姿を映す鏡を指し示すことが必要だ。今緊急に求められる政治的旗印、どこが掲げてくれるのだろうか。