自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ヨガの大元=不二一元論のイロハ(4)

2021年03月17日 | 健康と直結する”一元論”について



”エカムサット”の本当の意味              

2021年3月17日

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前書き~

ヨガの大元とは、インドの多種にわたるヨガの背景には、

ウパニシャッドというヴェーダの哲学が存在する。

それが、一元論であるため、あまり、聞きなれないこの言葉を、

砕いて教えていただいたノートが手元にあった。

南インドのカルナタカ州に住んでいらした、シュリ・サティア・

サイババ師の夏期講習だったと思う。

第一回から第三回まで、すでに、発表させていただいたが、

今日から、エカムサット、という、真理を、お伝えしたい

と思う。

先回は,身体が取る食事がヨガを遂行するには,理想的なサットワ的

なものでないことが多いなか、きちんと身体が調和を保って

“残留物”でパンクしない理由は何故か?

それは、身体に流れているチャイタニアと呼ばれる身体の意思が

あるからだというところまでたっだ。

 

そのチャイタニアとは何であるのか?が今日のテーマです。

サイババ師(あとはスワミと表記)は講話の中で次のように語った。

 

“身体は自動車に喩えられる。眼はヘッドライト、下は警笛、

耳はスピーカー、そしてそれぞれの部品が機能するにはバッテリーが

必要です。

同様に、身体のもろもろの器官は,身体の中にある‘アートマ’の力

と言えます。

たとえば、不活性な鉄の削りくずは磁石の力で引っ張られると

あちこちに動くことができる。

それと同様に、それ自体では活性のない身体のあらゆる器官の

活動も、アートマの力の存在で可能になるのです。

私たちが永遠のものであり、知覚力」を備えた真実のアートマ(大我)

を忘れて、このうつろいいく不活性の肉体を,美しくするために

多くの時間と労力とお金を費やしている、これが現代人です。“

 

なぜ、不活性の肉体にそれほど、人は時間とお金と労力を費やすのか?

それは自分の身体について、三つの勘違いをしているからだと、

スワミは言う。

一つは,自分自身を真実の”大我”以外の何者かと,取り違いしていること。

二つ目は、自分自身に属していない人やモノを,自分自身のモノと見ること。

三つ目は,消えて行く定めのものを永遠的だと信じることだという。

 

実際、私たちはこの自分と呼ぶ肉体を本当の自分だと意識をしている。

それが証拠に、人は、自分の身体を“これは私の身体だ。”と言う。

”私と身体”はこの文章の中では別々のものとしてとらえられている。

つまり、人間は”身体ではない”ということだ。

身体とは別のものが”私である”と人は無意識に知っているのだ。 

 

英語で考えるとよりわかりやすいかもしれない。私の身体を英語では

”my body” という。

この場合、私の、my, という所有格のつく対象物は、

それを持っている所有者とは異なるのは当たり前だ。

“これは私の車だ”といえば、車は私が使っているもので、

車が私ではない。

それでも人は身体と自分を同一視する傾向がある。

二つ目の勘違いは、人は世俗的な物質的な所有物、例えば、

土地や家、車や財産などを、自分の所有物と執着することである。

自分の物であるという権利は、正確には登記されている間、

あるいは、その所有者が生きている間、

または、その所有者が使っている間、認められるだろう。

 

しかし、その条件がなくなれば、”自分のもの”では、

なくなる。

”盛者必衰の理(ことわり)”という平家物語の語りの冒頭に

あるように、一時的で儚い”所有物”に過ぎない。

その所有者が死んだら、あの世に持っていけないのは誰でも

知っている。

それらの所有物がこの世に限定された持ち物であるにもかかわらず、

必用以上の執着を持つことからいろいろな問題が起きているのだ。

 

執着ということでいえば、物質だけが対象ではない。

人に対してもだ。

結婚する前は誰が自分の伴侶になるかわからないから、

’私の夫、妻”という言葉は、当然、結婚後に生まれる。

が、離婚すればその言い方は崩れる。

自分の子供であってもそうだろう、わずか100年足らずの人生

の期間だけの人間関係ともいえるだろう。

それなのに、”私の”、”私の”、と人に対しても、物に対しても、

大いなる執着を持つのは何故だろう?

スワミはその理由は,“自分自身を身体と同一化する勘違いから

生まれている”と言う。

 生まれてきたときは誰もが、身体を被う薄い布一枚すら、

持たずに誕生した。

それなのに、半生起もしないうちに“これは自分のもの、

これも自分の財産、これは自分の家族”となんと

“自分の~”と呼ぶ所有物が増えていく。

しかも、それらに対する執着が強く、一生涯その儚い一時的な

所有物を守ろう、離すまいとして振り回され続けている人は

多いようだ。

人生、私の~への執着のために、四苦八苦してエネルギーを費やして、

心の内側を観ている余裕もないまま、多くの人達は、死を迎えるの

だろうか?

 

スワミは言う:“あなたは誰にも属していない。同時に誰もあなたに

属していない。真に変らず存在してきたもの、

これからも存在するものは、たった一つしかありません。

賢者はそれを多様性の中の一つと呼びました。ところがあなた方は

その’一つ ’の真実を探そうとせず、

多様に顕れている現象にふりまわされているだけなのです”と。

 

もう少し具体的に言えば、こういうことだろう。

たとえばあなたは結婚している。妻も子供もいる。妻はあなたを

“夫”と呼ぶ。子供はあなたを”お父さん”と呼ぶ。

会社ではあなたは、“課長”と呼ばれ、親からは“わたしの息子”

と呼ばれている。

あなたはいろいろな名称で呼ばれるが身体は一つである。

自分の身体がどこに置かれているか、その人間関係はどうなのか?

という関係性で違った名称で呼ばれる。

これがヴェーダ聖典にいわれる、”エカムサット”の意味である。

”一つしかないモノが多様性を持つ”という意味だ。

”壱なるもの”が多く表れているだけなのだからそこには

当然統一性がある。

言い換えれば、いくら多い姿で変装しても、お面をとった人は

皆同じ同一人物なのだから、結局はその人自身だという

こと。

たくさんの現れ方をしているが結局、“一(いち)”しか

存在しないのである。

 

この世界でも同様である。一つのものが多種多様の姿や状態

になって、表現されている。

スワミは言う;“その‘壱’なるものが主人公である、すなわち、

‘神’と呼ばれる存在だ。”。

 

壱という数はよく見ると面白い。次回に続く・・・・

 

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