”自分の鏡は自分を映すためにあります” 2021年5月17日
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精神とか、魂レベルの、目に見えない世界に、
本物の何かを、求めていると思えば、この身は
様々な原始的で本能的な欲求を、出してくる、面倒くさい
ものと、とらえてました。
だから、”身体が求める声はあまり、かかわらないほうが無難だ”
と、ずいぶんと長い間、考えてきました。
それが、ホ。オポノポノ(ブログのカテゴリー”モ―ナ女史の
ハワイの癒し”参照)を学び、ウニヒビリと呼ばれる、身体から
から発せられる意識の声を、無視できないということに、
驚きました。
身体の意識の声というのは、”現在意識”で感じている感情や
想いです。
長い間、私は、神と繋がっている自分の中の”超越意識”や、
過去の浄化に関係する、”潜在意識”を考えることはあっても、
現在意識の”勝手な声”に耳を傾ける余裕など無い、と
思い込んでいたのです。
サイババ師はそのあたりをどう考えているのでしょう。
その身体と”本当の自分”との関係を、今まで以上に深く、
触れている内容になっています。
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サイババ師(以下はスワミ)は、束の間の間しか存在しない、
”身体”をとりあげて、お話が始まりました。(以下)
”身体がたとえ、一過性のはかない存在だとしても、
それが続く限りは、身体を尊重し、よくケアーをしなさい。
なぜなら、身体は神が住む、動く神殿だからです。
世間の言う価値を信じるのではなく、’本当の自信’を
みつけなさい。
’自信’は、あなたのその身体の神殿の礎(いしずえ)を
なします。
'神我実現’はこの神殿で得られる最大の幸福。
本当の’自信’を自覚したら、あなたは、どんなことでも
歓びをもって、なしえるでしょう。
ところで、’自分’の意味を知ってますか?
英語では'アイ’と自分をさします。
’I 'と英語で書くとき、それは、すべての人に存在する、
共通する、神の資質をもさしています。
(ヒンズー語で)’ボーギ’快楽主義者)’でも、
’ローギ(病人)’でも、ヨーギ(神と融合した人)’でも、
’ヴィラ―ギ(世捨て人)’でも、
’ピラーギ(乞食)’でも、
この’I'(アイ=私)と自分を呼ぶとき、その’I'の資質は
同じです。
彼らの名前は異なるでしょう。外見も違うでしょう。
でも、すべての人の中にある、’私’は同一なのです。
ヴェーダ文献の中に、’エーカム・サット・ヴィブラ・パフダ・
ヴァダンティ’(真実の’実在’は一つであるが、聖賢たちはそれを、
様々な名前で呼ぶ)と書かれている意味は、それをさしています。
多様性は世界中、宇宙の中に、どこでも見られるものですが、
学生諸君、あなたたちは、宇宙の多様性の根底にある、
’統一性’を見つけなさい。
あなたがたが、統一性を無視して、多様性ばかり見ること
が原因で、世界にはこれほどの多くの不安と平和の欠如
があるのです。
たとえば、国々はたくさんありますが、地球は一つです。
星の数は多くても、空は一つです。生物は無数に存在するが、
呼吸は一つです。
それゆえ、多様性のなかの、この統一性を、人がとらえて
いれば、世界に差別やもめごと、戦争の余地はなくなるはずです。
互いに、皆、理解しあうからです。
あなたも私も、本質的には同じなのだ、とわかるからです。
外見や状況、立場がそれぞれ異なっていても、本質の中の
統一性を見出せるからです。だから、戦争などで、 自分
以外の人や物を破壊しても、それは、自分を破壊している
ことだと、ヒトは気がつけば戦争はなくなるでしょう。
学生諸君、
自分の想念と言葉と行動において、相違点と差別に
対して、余地を与えることは避けてください。
あなたがたは、だれでも、自分の中に起こる考えの
性質から、自分が強く健康でいられるか、それとも、弱く
不健康であるか、知ることができます。
なぜなら、’(サンスクリット語で)
ヤット・バーヴァム・ヤット・バーヴァディ’
(自分の考える通りの人になる)からです。
内部にしまってある宝石のために哲の金庫を大切に
管理するように、あなた方も、内部にある’アートマ’のために
自分の身体に気をつけるべきなのです。
生きるために食べるのであり、食べるために生きるの
ではありません。
あなたがたに自己信頼があれば、必要な食物は、
あちらからあなたの方にやってくるでしょう。
その時は食物を探しに行く必要もないくらいです。
それゆえ、バガヴァッド・ギータ
には、’アートマを求めるものはゴービ(帰依者)であり、
食物を求めるものはバービ(罪人)だ’と書かれて
いるのです。
言い換えれば、尊い人の姿に生まれ、アートマを求める
代わりにアンナ(食物)を追いかけまわしているのは、
情けないと思います。
ヴェーダンダ哲学では、人は本当の自分を’発見’
することを、強く勧めています。その本当の自分をみるために、
あなた方は、自分の知力という、自分の鏡を使う
代わりに、その鏡を、自分以外の他人の前 において、
他人を見ています。
だから、あなたがたは、本当の自分の姿を見ることが
できないのです”
(以上)
ノートからの引用は、今日は、ここまでです。
いかがでしたか?
身体を大切に扱うこと、それは、それが、”アートマ”という
自分の本質=神性=神の、お住まいだからです。
本当の自分の資質、そのアートマ を、人として
生まれてきた以上、探し求めることが、生まれてきた
大きな目的だといいます。食べ物を探し求めるために
生きているのではない、というのは、比喩でしょう。
食べ物=物質的な満足~を追い求めるのではなく、
自分は何か~と本当の自分を探していると、自然と、
必要な物質(食べ物を含めて)が、供給されると
いうのです。
それは、偶然を装い、気がつかないうちに、私たち
の手元に届けられているはずです。
たとえば、誰かからの、差し入れだったり、お土産
だったり、お食事に招待されたり、プレゼントだったり、
サプライズで、宅急便で届けられたりするのでしょう。
自分の”智慧”(本来の自分が持っている、良心や、
直観で顕れる真理のかけら)という鏡で、この神殿の中
にある永久存在の自己、
つまり、アートマを映し出すことを、まず、考えなさいと
サイババ師は、言います。
にもかかわらず、普段は、この鏡を、他人の前に
おいて、批判やジャッジをすることに、私たちは忙しく
なりがちのようです。
今日の講義では、サイババ師はそのことを、留意する
ように、その鏡は、本物の自分を映し出すために
使われるべきものだということを主眼にしているのです。
また、続きは次回に・・・
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