読者のかたのご意見に賛成
”お母さん、私がお母さんを悲しませること、
そんなことがするはずないじゃない。
お母さんは幼い頃、いつも、小さな私にとても
優しくしてくれたよね。
そんなお母さんを、どうして、悲しませることができる。
わかった。 ・・・ わかった。・・
でもそれ以上そんな事を言って、私を責めるなら・・
ごめんね。私、電話、切るよ。”
といって、以前、母が電話の途中、何かに切れて、
プツンと受話器を置いたように、母の理不尽な言葉と
ヒステリックな口調で聞いていられなくなって、
私の方から、電話の途中で受話器を置くのである。
するとその日は 何故かそのことで二度と
かかってこない。
以前だったら、話合って、説明をして、一度納得したように
見えた母は、再度電話をかけてきて、同じ質問をする。
こちらの答えに、また、頭に血が上ったように、母の感情
はエスカレートして、興奮が妄想を膨らませ、電話のベル
は鳴り続けたものだった。
これは母のケースにだけあてはまるのかもしれない。
ある意味、特殊なのかもしれない。
しかし、最近の母は変わった。
今の母は、一人ぼっちになりたくない、
言い換えれば、娘から嫌われたくない、だから、娘が
不愉快なことは言わない方がいい~と、頭で理性が
動くだけの余裕があるという事かもしれない。
でも、私はそれだけだと思っていない。母とともに、
時々一緒に、食事に誘う妹にいつもいう言葉がある。
それは、妹が私に、”いくら言ってもわからないわよ”
というスタンスをとる時の、わずかな私の抵抗でもある。
何度でも、噛んで含ませるように母に説明。
先ほどの電話のケースのように、納得してもらっても、
結局、妄想のとりこになる母をみて、私の母に対する
スタンスは、やや、”楽天的だと思う” と妹の反応が
返ってくるのが 今のところ常だが・・・
私の妹にわかってもらいたいスタンスとは次の妹へ
の言葉そのものである。
”魂は誰にでもあるの。魂と肉体が分離している(感情の
コントロールが効かないで訳が分からなくなる)
ように見えても、必ず、魂から吐く言葉は 相手の魂に
つながるの。
きっと、お母さんの魂もいつか私たちの真心がとどいたとき、
優しくなるのよ。”
と私は、妹に話すのだ。
では、いつ、私の真心が本物になるのか?
母に上から目線でものを言ったり、”やれやれ” と 内心、
ため息をつきつつ、困った子ちゃんに対するような返答や、
”そうね。そうしましょう。” と言いつつ、相手がそれを
忘れてしまうのを’待つ’式の その場しのぎ的な受け答えで
接する中には、決して真心は、伝わらないだろう。
だから、心掛けていることがある。
一日のうち一つでいい。優しさと温もりを与えてくれた母
というその人に、そのお返しをさせていただける、という
気持ちをもって、本当の優しさで 自分の心を相手に
投げかけることができるかどうか?
その意味では ゆうこさんの 修行 という心持に、
自分を重ね合わせる。
いずれにしも、私たちの魂の道場の場であるという
ことである。
今、置かれている場所と与えられる体験がすべて
道場の中の修行に過ぎない・・
という点で、ゆうこさんのご意見に賛成です。