母を送った日は満月だったが父の時は半月のおぼろ月
9日の日曜日にオットと顔を見に行って、その週末の金曜日にムスメと土曜日にムスコとお見舞いに行くつもりが間に合わなかった。
13日の木曜日の0時頃に呼吸状態が急変したと病院から連絡があったと弟から電話があり
急いで行く準備をしていたら
「今病院についたけどもう息してないや」という電話があった。
んっもう~~~ 急性期は過ぎたので次は療養病院か施設に戻るかなんて話もしていたのに・・・ せめて弟が来るア間の20分待てなかったの?
せっかちだった父らしい・・・
母の時は家族葬だったけど「オヤジの葬儀はそうもいかねえんだよな」 by弟 らしく 地元紙と全国紙などの地方版に訃報を載せたら供花が会場をぐるりと取り囲むように届いた。
コロナ禍前後でだいぶ変わったらしいが、参列の方も結構いらしたと思う。
それはともかくお寺との折衝や棺や会場の設えやら香典返しの選定やら 葬儀社の担当者も同じで、なんともサクサク物事が進んだのは良いのか悪いのか?
供花や参列者は弟の仕事関連からも多かったけど、父の生前 なんちゃらクラブだのなんちゃら会議所だのなんちゃら会の会長やらや学校の理事職やってた関係もあったと思う。
仲間も多くて活動的で世話焼きで人に好かれる人だったが、結構毒舌で一言多いんだわよ と母をハラハラさせていたところもあったと思う。
父の遺影は金婚式の時に母と並んで撮影した時のもの
告別式の時には母の遺影も置いたら、母の死も知らなかった参列の方たちに驚かれた。
あれからまだ5か月たってなかったんだよ。
やっぱりセッカチすぎるでしょ、父よ
苦しまずに逝ってくれたようで綺麗なおじいさんになっていた父。
母から受け継いだ しゃべるぬいぐるみのコウタ君は今度は一緒に母の元へ旅立った。
焼骨後 その残った骨の量に葬儀場の人が驚いていた。
「このお年でこんなに残っているなんてねえ・・・ 鍛錬されてたんですねええ」そういえば80代くらいに骨量は同年代の140%あると診断されていたっけ。母は粗鬆症気味でお骨拾いも細い細い骨だったけどワタシはどっちに似てるんだろう?
この地方の主産業だった製糸 撚糸 織物の工場もやってた糸繭商の3代め 時代の趨勢で元々の商売は畳んだがその後転じて70代半ばまで働いていた。
仕事の事は殆ど家で話さなかったのでどんな具合かは知らなかったが ワタシにはあまり制限もなくやりたかったことは自由にやらせてくれたし、何か大切な節目にはさらっとお金を出してくれた。
オットとの結婚が決まった時には オットに
「ここ(実家)に施設建ててやるからここで開業すりゃいいがな」と言ったそうだ(ワタシには言わなかったが・・・)
ワタシと近くに居たかったのかなあ と今となっては思う。
供花がたくさん届き、その場所の選定をする弟と弟の仕事関係の人。
〇〇銀行のホニャララが先か 議員のホニャララ先生が先か ✖✖クラブの会長が先か 〇〇会ではどちらがエライか年齢はどちらか上か・・・
花屋さんが立て札を持ってあちこち動き回るのを尻目に一人しらけるワタクシ。
こういうのを忖度する狭い田舎の序列社会が嫌だったんだよなあ・・・
だからそこから飛び出て東京に出てきちゃったんだよなあ・・・
とはいえ
父の大きな庇護の下で 母の細やかな愛情の下で 成長させてもらい、何かと助けてもらいながらもワタシは勝手なムスメでした。
だから、ワタシも子供たちや孫たちにも人に迷惑さえかけなきゃ自分のことは自分で決めて好きなようにやってちょうだいなと思うことができるのかもしれない。
去年の今頃は 姑と両親が生きてて、三人合わせると270歳? とか言ってたんですけどね。
いっぺんに孤児(孤婆)になってしまった。
寂しいが、今頃母とまた会えただろうし、彼方には兄たちや友達、愛犬たちと再会してにぎやかにやってるだろうと思う。
ほぼ2週間 gooブログサイトを開くことや 父の死を文章に綴る事、こちらでのお友達の記事も読みに行く気力もなくて ご無沙汰してしまいました。
あれ以来 夜眠れないのと、ムスコとムスメの一家に葬儀その他でスケジュール的にも無理させちゃったので、そのしわ寄せで忙しい彼らのために、孫たちのフォローでヘロヘロになってしまい、この半月で5歳くらい年とった気もするが 徐々に回復を計ろうと思っております。