ほんとに、雨ばかりですね。
昨日は、ちらっと晴れ間があったので、洗濯物が少し乾いたけど、ほんまに、ちゃんと晴れて欲しい・・
なんせ、隔日に洗濯してたわが家が、毎日してるんですよ・・・当たり前やけど・・お日さま、出てきて~!
それにしてもこの大雨、全国的に被害が出てますね。
熊本の、球磨川流域。えらいことになってます。
実は、下流域の津奈木というところは、父の生まれ故郷なんです。
住んでいたのは、尋常小学校の頃までやと思うし、
今、親戚がそこにいるのかどうかもわかりませんけどね。
でも、1度だけ、行ったことがあるんです。
祖父が亡くなった時、50年以上も前のこと。
両親と一緒に帰省したんですね。
おぼろげに覚えているのは、田舎の細い道と傾斜地に点在する家。
石垣にヘビが顔を出していたのと、桶型の棺、そして土葬・・・
小さな平家に大勢の大人たち。両親と、近くの湯の児温泉に泊まったこと。
あの傾斜地の集落、大丈夫でしょうか・・・
被災された方々・・・お見舞い申し上げます。
犠牲になられた方の、ご冥福をお祈りいたします。
滋賀県でも、長浜や高島、大津でも土砂崩れなどがあったようです。
古戦場で有名な、あの姉川も氾濫危険水位を上まわったとか。
地元の治水について、かつて特集記事を書いたことがあります。
琵琶湖の治水といえば南郷洗堰が有名ですが、この取材で知ったのが「田川カルバート」。
姉川と高時川、そして田川の3川が交差しているところにあります。
水害に悩まされた人々が、工夫をこらした治水工事なんですよ。 → こちら
先人の知恵は、今も生きています。
実はこの春から、地元の大きな治水工事について、また調べています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/5c/a1ff42de4a5c0bf4fbceed31b12b4a11.jpg)
地元を流れる1級河川の野洲川。
鈴鹿山脈が水源で、「近江太郎」と呼ばれるほどの暴れ川です。
およそ10年に1度、大水害が発生して、沿川の人々を苦しめていました。
かつて、琵琶湖にそそぐ前に、野洲川は市内で南北二つの川に分かれていました。
でも、二つの川幅は狭く曲がりくねり、川底の高い天井川のため、大雨になると堤防が切れたんですね。
流域の人々は水害のたびに堤防を手直ししていたのですが、村が一つなくなったこともありました。
水害を抑えるために、人身御供の伝説もあるんですよ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/8a/51ed2d89f5e3061c287d5cd0525239c1.jpg)
「ちりんさん」 ~愛の内明神~
天文6年(1537)から3年連続で野洲川南流の戸田堤(現・守山市立田町)が決壊。
度重なる惨事に、庄屋の奥野忠左衛門は、娘の愛を人身御供として堤防の穴に捧げました。
それ以来、どんな大雨でも決壊せず、村人は「ちりんさん」という祠を建てて彼女の霊を弔いました。
現在も、お祀りしてるんですね。
ほこらの中に、こんな書き物がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/98/4596d402bc34efa4050466636e9ad726.jpg)
なんとも、悲しい・・・
昭和28年9月の台風13号の水害がきっかけで、野洲川の大規模な改修工事がすすめられます。
国の事業として、1971年から79年まで、南流北流を一つにした放水路の建設工事が行われました。
放水路を作るために、甲子園48個分の農地を供出、約40戸の住人が立ち退きを強いられたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/dd/39aba76bf3f471b7fe177ad6ba3464f3.jpg)
現在の野洲川河口ちかく。
農地の移転、立ち退きを強いられた人々の不安、いろいろあって、今の川があるんやね。
地元の小学生は必ず、このことを学ぶはずなんですが、みんな覚えてるのかな。
災害はいつ襲ってくるかもわからないけど、やはり、先人の人たちから学ぶことは多いですね。
歴史はなんのために勉強するの??
なんて、かつて娘に言われたことがありますが、いわゆる、温故知新、ですよね~~
歴史から、私たちは「生き方」を学ぶんですよ。
失敗も、成功も、古臭いも、ダサいも、センスないとか・・も、学ぶんですよね。
治水のことだけでなく、郷土史って、ほんと、面白いです。
昨日は、ちらっと晴れ間があったので、洗濯物が少し乾いたけど、ほんまに、ちゃんと晴れて欲しい・・
なんせ、隔日に洗濯してたわが家が、毎日してるんですよ・・・当たり前やけど・・お日さま、出てきて~!
それにしてもこの大雨、全国的に被害が出てますね。
熊本の、球磨川流域。えらいことになってます。
実は、下流域の津奈木というところは、父の生まれ故郷なんです。
住んでいたのは、尋常小学校の頃までやと思うし、
今、親戚がそこにいるのかどうかもわかりませんけどね。
でも、1度だけ、行ったことがあるんです。
祖父が亡くなった時、50年以上も前のこと。
両親と一緒に帰省したんですね。
おぼろげに覚えているのは、田舎の細い道と傾斜地に点在する家。
石垣にヘビが顔を出していたのと、桶型の棺、そして土葬・・・
小さな平家に大勢の大人たち。両親と、近くの湯の児温泉に泊まったこと。
あの傾斜地の集落、大丈夫でしょうか・・・
被災された方々・・・お見舞い申し上げます。
犠牲になられた方の、ご冥福をお祈りいたします。
滋賀県でも、長浜や高島、大津でも土砂崩れなどがあったようです。
古戦場で有名な、あの姉川も氾濫危険水位を上まわったとか。
地元の治水について、かつて特集記事を書いたことがあります。
琵琶湖の治水といえば南郷洗堰が有名ですが、この取材で知ったのが「田川カルバート」。
姉川と高時川、そして田川の3川が交差しているところにあります。
水害に悩まされた人々が、工夫をこらした治水工事なんですよ。 → こちら
先人の知恵は、今も生きています。
実はこの春から、地元の大きな治水工事について、また調べています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/5c/a1ff42de4a5c0bf4fbceed31b12b4a11.jpg)
地元を流れる1級河川の野洲川。
鈴鹿山脈が水源で、「近江太郎」と呼ばれるほどの暴れ川です。
およそ10年に1度、大水害が発生して、沿川の人々を苦しめていました。
かつて、琵琶湖にそそぐ前に、野洲川は市内で南北二つの川に分かれていました。
でも、二つの川幅は狭く曲がりくねり、川底の高い天井川のため、大雨になると堤防が切れたんですね。
流域の人々は水害のたびに堤防を手直ししていたのですが、村が一つなくなったこともありました。
水害を抑えるために、人身御供の伝説もあるんですよ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/8a/51ed2d89f5e3061c287d5cd0525239c1.jpg)
「ちりんさん」 ~愛の内明神~
天文6年(1537)から3年連続で野洲川南流の戸田堤(現・守山市立田町)が決壊。
度重なる惨事に、庄屋の奥野忠左衛門は、娘の愛を人身御供として堤防の穴に捧げました。
それ以来、どんな大雨でも決壊せず、村人は「ちりんさん」という祠を建てて彼女の霊を弔いました。
現在も、お祀りしてるんですね。
ほこらの中に、こんな書き物がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/98/4596d402bc34efa4050466636e9ad726.jpg)
なんとも、悲しい・・・
昭和28年9月の台風13号の水害がきっかけで、野洲川の大規模な改修工事がすすめられます。
国の事業として、1971年から79年まで、南流北流を一つにした放水路の建設工事が行われました。
放水路を作るために、甲子園48個分の農地を供出、約40戸の住人が立ち退きを強いられたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/dd/39aba76bf3f471b7fe177ad6ba3464f3.jpg)
現在の野洲川河口ちかく。
農地の移転、立ち退きを強いられた人々の不安、いろいろあって、今の川があるんやね。
地元の小学生は必ず、このことを学ぶはずなんですが、みんな覚えてるのかな。
災害はいつ襲ってくるかもわからないけど、やはり、先人の人たちから学ぶことは多いですね。
歴史はなんのために勉強するの??
なんて、かつて娘に言われたことがありますが、いわゆる、温故知新、ですよね~~
歴史から、私たちは「生き方」を学ぶんですよ。
失敗も、成功も、古臭いも、ダサいも、センスないとか・・も、学ぶんですよね。
治水のことだけでなく、郷土史って、ほんと、面白いです。