先日池袋から乗った東上線で、スーツを来ているが会社務めではなさそうなおじさん二人と、スーツ着てるけどOLさんではなさげな若い女性の3人組がいて、「あのメンバーがいたら関東にいけるよ」とか「このあいだの練習試合でさ」などという会話がきこえてきたので、あ、やっぱり学校の先生だ、と思った。
なんとなく先生ぽい人なと思われる人がいるけど、なんでだろ。
微妙に態度が大きめだったりとか、スーツにスニーカーだったり(論外?)とかするからだろうか。
重松清『青い鳥』の主人公、村内先生は、見た目はたぶん先生ぽい。
しかし、子どもに対する接し方は、一般的な先生とは一線を画している。
村内は産休や病休の先生の代わりに派遣される臨時教員である。
吃音ゆえに、話がききとりにくい。
常時いる先生でさえ子どもを掌握するのが難しいこの時代、突然教室にあらわれて、つっかえながら話す村内先生が、簡単にうけいれられることはない。
多くの生徒にとって村内は、一定の期間がすぎればいなくなるだけの先生だが、教室に居場所のない生徒、いじめられている生徒、心に傷をもった生徒は、ある日村内先生の思いに気づく。
はじめて学校の先生によりそってもらえた、という気持ちを抱くことになる。
そんなお話が8遍おさめられている。
タイトルになっている「青い鳥」は、いじめられ自殺未遂をした生徒がいるクラスに赴任してくるお話。
事件のあと、長い期間にわたって、クラスでの話し合いや反省文を書く時間がもうけられ、被害者の野口くんは転校し、これで収束したと先生も生徒も感じ始めていたころ、休職する担任の代わりに村内はやってきた。
すると、片付けられていた野口くんの机を教室にもどし、毎朝のHRの時間に、その机に向かって「野口くん、おはよう」と言うのだ。
映画「青い鳥」を前に観たので、読んでる間ずっと阿部寛が頭の中にいた。
阿部寛が言う、「き、君たち、忘れてしまうなんて、ず、ずるいなあ」。
もう、ウザさの極致でしょ、生徒にすれば。
同僚として接した場合、先生方にとっても、きわめて扱い憎い存在となるだろう。よかったね臨時の先生で、という扱いになるはずだ。
学校という空間は、みんなが同じ服を着、同じ向きに座り、同じ授業を受け、教師というかたよった価値観をもつ人の話をきき続けなければならないところだ。
そういうことに疑問をもたずにすごしていける子もいれば、そんなもんだとわりきって、なんとかやりすごしていける子もいる。そして、たえきれなくなる子ももちろんいる。
閉ざされた空間である。
閉ざされていることに気づくかどうか。
子どもは気づけなくても、教員は気づいてないといけない。
自分たちのやっている行いを、外から見たらどんなふに見えるか、とたまには考えないといけない。
映画で、「おまえたち、しっかり反省しろ、反省文は5枚だ!」と指導する、いかにも先生らしい指導のシーンがあった。
監督さんは、先生の感性をよくわかっているなと赤面したものだ。
とりとめなく書いてしまうけど、「将来の職業をしっかりみすえて、進路を決めろ」という指導は、閉ざされた世界で生きている教員であればこそできるものだろう。
そういう先生の目には、目の前の生徒が、目の前にいる姿の存在としてしか見えてない。
人は変わる可能性をもっている。
教師は子どもの可能性をのばしてやるのが仕事だ、などと自分でも言葉では言ったりするくせに、目の前の子どもの変化を想像しえないから、そんな指導ができる。
将来やりたいことを考えてみよう、といって知識の少ない子どもたちに子どもたちに考えさせてどうするのだろう。
そういう言葉を発する教員の頭にある職業の数もけっこう少ないんじゃないかな。
だいたい、これからの時代、われわれが今の時点でイメージしうる職業の中におさまろうとするなんて、その時点でせますぎる。
いったい、どんな大人になれるかな、予想もつかないけど、わくわくするねって言いながら、そばにいてあげればいいのだ。
さっき、ぱらぱらと読み返していたら、「カッコウの卵」という短編の最後の方で、どうなるかわかっているのに、鼻のおくがツンとしてきて困った。あわてて採点にもどった。人それぞれだろうが、誰でも8つのうちどれかには必ず涙腺がゆるむことは間違いない。
なんとなく先生ぽい人なと思われる人がいるけど、なんでだろ。
微妙に態度が大きめだったりとか、スーツにスニーカーだったり(論外?)とかするからだろうか。
重松清『青い鳥』の主人公、村内先生は、見た目はたぶん先生ぽい。
しかし、子どもに対する接し方は、一般的な先生とは一線を画している。
村内は産休や病休の先生の代わりに派遣される臨時教員である。
吃音ゆえに、話がききとりにくい。
常時いる先生でさえ子どもを掌握するのが難しいこの時代、突然教室にあらわれて、つっかえながら話す村内先生が、簡単にうけいれられることはない。
多くの生徒にとって村内は、一定の期間がすぎればいなくなるだけの先生だが、教室に居場所のない生徒、いじめられている生徒、心に傷をもった生徒は、ある日村内先生の思いに気づく。
はじめて学校の先生によりそってもらえた、という気持ちを抱くことになる。
そんなお話が8遍おさめられている。
タイトルになっている「青い鳥」は、いじめられ自殺未遂をした生徒がいるクラスに赴任してくるお話。
事件のあと、長い期間にわたって、クラスでの話し合いや反省文を書く時間がもうけられ、被害者の野口くんは転校し、これで収束したと先生も生徒も感じ始めていたころ、休職する担任の代わりに村内はやってきた。
すると、片付けられていた野口くんの机を教室にもどし、毎朝のHRの時間に、その机に向かって「野口くん、おはよう」と言うのだ。
映画「青い鳥」を前に観たので、読んでる間ずっと阿部寛が頭の中にいた。
阿部寛が言う、「き、君たち、忘れてしまうなんて、ず、ずるいなあ」。
もう、ウザさの極致でしょ、生徒にすれば。
同僚として接した場合、先生方にとっても、きわめて扱い憎い存在となるだろう。よかったね臨時の先生で、という扱いになるはずだ。
学校という空間は、みんなが同じ服を着、同じ向きに座り、同じ授業を受け、教師というかたよった価値観をもつ人の話をきき続けなければならないところだ。
そういうことに疑問をもたずにすごしていける子もいれば、そんなもんだとわりきって、なんとかやりすごしていける子もいる。そして、たえきれなくなる子ももちろんいる。
閉ざされた空間である。
閉ざされていることに気づくかどうか。
子どもは気づけなくても、教員は気づいてないといけない。
自分たちのやっている行いを、外から見たらどんなふに見えるか、とたまには考えないといけない。
映画で、「おまえたち、しっかり反省しろ、反省文は5枚だ!」と指導する、いかにも先生らしい指導のシーンがあった。
監督さんは、先生の感性をよくわかっているなと赤面したものだ。
とりとめなく書いてしまうけど、「将来の職業をしっかりみすえて、進路を決めろ」という指導は、閉ざされた世界で生きている教員であればこそできるものだろう。
そういう先生の目には、目の前の生徒が、目の前にいる姿の存在としてしか見えてない。
人は変わる可能性をもっている。
教師は子どもの可能性をのばしてやるのが仕事だ、などと自分でも言葉では言ったりするくせに、目の前の子どもの変化を想像しえないから、そんな指導ができる。
将来やりたいことを考えてみよう、といって知識の少ない子どもたちに子どもたちに考えさせてどうするのだろう。
そういう言葉を発する教員の頭にある職業の数もけっこう少ないんじゃないかな。
だいたい、これからの時代、われわれが今の時点でイメージしうる職業の中におさまろうとするなんて、その時点でせますぎる。
いったい、どんな大人になれるかな、予想もつかないけど、わくわくするねって言いながら、そばにいてあげればいいのだ。
さっき、ぱらぱらと読み返していたら、「カッコウの卵」という短編の最後の方で、どうなるかわかっているのに、鼻のおくがツンとしてきて困った。あわてて採点にもどった。人それぞれだろうが、誰でも8つのうちどれかには必ず涙腺がゆるむことは間違いない。