お芝居にも、芥川賞系と直木賞系があると思う。つまり純文学系とエンターテインメント系というように。
お芝居の世界に、こういう大雑把な分け方を表す言葉はあるのかな。
いざ分けようとすると小説の世界より混沌とするような気はするが、なんとなく自分のなかで二方向あって、やはり楽しみたいのでお芝居といえばエンタメ系にでかける。行って観て楽しんで時には泣けてという魂の浄化が経験できるので。
ここ数年、キャラメルボックス、今年解散するセレソンデラックス、劇団子、だっしゅなど、楽しいお芝居を観ることができた。定演にそれをいかすためという仕事の一貫ででかけているのです。
あまり行かないまじめ系のお芝居で、唯一(かな)心うごかされたのは、「ままごと」さんである。
柴幸男さんという、たぶん演劇の歴史に名を残すであろう若い書き手の方の作品を演じるための劇団。
「わが星」「あゆみ」。何であんなに感じ入ってしまったのだろう。
ストーリーがおもしろいわけでもない。ていうかむしろよくわからない。
役者さんの演技が上手すぎるという驚きでもない。演技というより身体表現であり、でもたぶん一番に大切にされているのは言葉のはずだ。
大道具や大仕掛けをつかう商業演劇とは真逆の環境でそれは演じられていた。
観客が四方が取り囲むステージ(というか床)に役者さんが表れる。
「わが星」では照明によってつくられた光の枠、「あゆみ」では役者さんがチョークで地面に書いた線。
ほかに何もない。何もないが、一つ一つのシーンは伝わってくる。
セレソンデラックスさんの、舞台の隅々の誰も気付かないような小物にまでこだわった舞台とほんとうに正反対だ。
セレソンさんが具体の極致だとすれば、ままごとさんは抽象の極致。
台詞のすべてが、一定のリズムの制約のもとに発せられる点も、抽象の一つの姿なのかもしれない。
そして同じシーンが形をかえて何度も描かれる。
ある時間に、ある人物が、ある行いをした。
もう一度、ある時間に、ある人物が、ある行いをする。
しかし、二度目は、台詞が変わる、動きが変わる。
観ていると、同じ時間帯に、同じ人物による、別の世界が存在しているような気分になってくる。
我が身におきかえたとき、お芝居を観ている自分とは別の自分が、同時に存在して何かほかのことをしてるのではないか、ほんとうの自分はそっちなのではないかという不安感さえ抱く。
具体の極致の先に、かけがえのない一つの人生を描くのがセレソンさんだとしたら、抽象の究極として人間存在の普遍を問いかけるのが柴幸男さんなのではないか。
なんか、演劇評論のパロディみたいな文になってしまった。
自分でも意味わかんないかも。
でも、そんなふうなことを、三鷹芸術ホールで、柴さんの新作「朝がくる」を観て思った。
一人芝居だったので、役者さんの台詞のユニゾンという今までのお芝居で一番好きなのがなかったのが残念。
一人しかなくても、役者さんの言葉はリズムを刻む。
この地球に生きる人間は、地球のリズムと別の時間を生きることはできない。
人間の体内時計は24時間とは少しずれてという話を聞いたことがあるが、でも朝がくれば目を覚まし、夜になれば眠りにつく。
発せられる言葉も、地球のリズムと別種の論理で存在することはできない。
A県K町のある日の朝、何時何分というある一瞬を過ごす、ある一人の女性という具体が、演じる役者さんの類い希な身体性によって、普遍に昇華されていく舞台だった。