今更あらためて気付くまでもなく、どう表現するかの積み重ねが芸術の歴史だ。
音楽でいえば、一つのメロディーをみんなで歌うだけの状態から、対位法がうまれ和声がうまれ、楽曲の形式が整い、そこから発展したり、逸脱したりしたり、手を換え品を換え、ひとつのことを表現しようとしてきた結果が今の状態だ。
クラシック音楽は最盛期を過ぎてしまった芸術と言われるが、こと吹奏楽に関していえば、遅れてスタートしている分、まだまだ「どう」の伸びしろはあるように思える。
楽器そのものが発展し続けている度合いの高さも一つの原因だろうか。
人間のやることだから、「中身」は古今東西、昔から今までたいして代わり映えしなくても、方法や手段が変われば、結果の質はいくらでも変わる。
新しい方法や手段を手に入れるということは、より自由に、より豊かに表現できる可能性がひろがるということだから。
先日、セリフのすべてが曲ののせられるタイプのミュージカルを観た。
その昔、お芝居と音楽が結びついたとき、人々は新しい表現方法が生まれたと喜んだことだろう。
感情の盛り上がりを、歌ったり踊ったりして、観客の五感のすべてにうったえることができることにできると感動したのではないか。
だからといって全て歌うのはどうだろう? とその日思ってしまった。
「ひめゆり」という作品で、神田沙也加さんも出演されてたのにも惹かれて出かけたのだが。
お芝居が始まる、音楽が流れ初める、たくさんの人が歌い始める。
歌が終わる、次の音楽が流れ、純粋に普通のセリフも曲にのせて語られる。
「兵隊さん~、具合はいかがですか~」「だいぶ、よくなりました~」的なかんじで。
なんで普通に話さないのかなと思ってしまった。
ミュージカルはお芝居、歌、踊りが結びついた総合芸術であることは言うまでもない。
照明つかいまくりで、生バンドの演奏もある。
ほんとに自由になんでもやれる形態のはずなのだが、全部歌方式はあまりに不自由に見えた。
セリフには微妙な感情とその変化がのせやすい。
哀しいのに笑っている、哀しいから笑っている、くやしいから泣いている、くやしいから無表情でいるとか、いろんな表現が可能だ。
すべてのセリフを歌にすると、この機能を完全に捨てることになる。
メロディーにのせる分、純粋に単位時間の情報量も減る。
それを補ってあまりあるほど心打つメロディであれば効果もあるだろうが、2時間分の全曲を名曲に仕上げるのはさすがに並大抵のことではない。
だから、全部歌だと純粋にあきてしまうのだ。それに曲想が変わっても、歌いっぱなしだと変化が小さくなる。
セリフで表現した方がいいパートはそのようにし、歌を聴かせるところ、踊りをメインにするところを効果的に用いてこそ、ミュージカルの存在価値はあるんじゃないかな。宝塚とかはどんな感じなんだろ。
音楽座さんのミュージカルのすぐれているのはそこなのだろうと、その日思った。
「兵隊さん、具合はどう」「だいぶ、よくなりました」は、数秒のセリフで表現すべきで、数十秒かけて歌い時間を消費してしまうのはもったいない。
もしくは、ちがう次元の歌を用いて、怪我の治療でわめき苦しんだ兵隊さんにも一時平穏な時間が流れていることを表現すべきだろう。
歌にはどういう効果があるのか。
音楽座の渡辺修也さんという俳優さんのブログで、なるほどそうとおり! と感心する記述を読んだ。
~ さて、ミュージカルということで、芝居の他に「歌」と「ダンス」が入ってきます。「なんで急に歌うねん?」という方も多いと思いますが、実はこれには重要な意味があります。
それは「『イメージ』を伝えるのに最も手っ取り早いから」です。
例えば
「不治の病の患者が、五体満足であったならば生きれたであろう『生』を、その魂たちが表す」
というシーンがあります。これは実際では5分のダンスナンバーとして作ります。しかし、これをもしテキスト表現でやるとなると、とても5分では書き切れません。
言葉ならぬ「イメージ」を短時間で直接叩き込むには、テキスト以外の表現がどうしても必要になってきます。一つの旋律が百万の言葉で表せぬ感情を表すのです。(渡辺修也「雨ニモマケズ」より) ~
この具体例は「泣かないで」の1場面のことかな。
先日部員たちとも観させてもらった「シャボン玉とんだ」には、作曲家の卵の若者が、仕事の依頼を受けて、次々と楽曲を仕上げていく様子を歌とダンスで表現するシーンがあった。
主人公の作曲の師匠や、音楽プロデューサーが歌い出す。
若者がつられて歌い出す、黒鍵と白鍵に扮する踊り子さんが入ってくる。
彼の才能が次々と形になっていくイメージが、一身にして観客の脳裡につくられていく。
「どうだい~、作曲はすすんでいるか~」「いいかんじで~、すすんでます~」とたんなるセリフの音楽のせにしてしまったらどれだけ貧弱になってしまうことだろう。
セリフのいいところ、歌の効果、踊りの役割を相当考え込んでつくらなければ、ミュージカルはかえって表現の総体を小さくしてしまうこともありうる。