なんでもできることが自由を失わせることもあれば、何もないから自由になれることもある。
たとえば落語。
高座のざぶとん一枚の上でたった一人で演じるお芝居。
大道具も照明もない。音響はほんの少し可能。
不自由のきわみと言えるが、だからこそなんでもできる。
演者が「おはよう」といえば朝になる。
「カラスかあ~で夜が明けて」といえば吉原の朝になり、談笑師匠のように「らくだボゲゲェで夜が明けて」と言えばなんとイスラム世界にも連れてってもらえる。
ただ、あまりにも何もないため、演者自身がむきだしになる。
おもしろい噺家さんとそうでない方との差はまちがいなくあるが、それは技術の違いだけでない。
その人自身がおもしろいかどうか、魅力的かどうか、人生の修羅場をくぐっているかどうか、そういうものの総体がベースにあって、その上に存在する技術に価値がうまれる。
亡くなった談志師匠が、弟子達にいろいろ理不尽な修業をさせているのは、そのベースにこそ意味があると考えたからだろう。
ひるがえって学校の先生は、逆じゃないといいけないと思う。
つまり人としての存在感とか、器量の大きさとか、人間的魅力とか、そういうものが教師には必要だと主張する人もいるけど、それはちがう(と思う)。
そんなね、抜きんでた魅力をもった人が、全国何十万人も存在するわけがない。
授業にかぎって考えても、名人とよばれるような授業をできる人がそうそういるわけではない。
だから名人とよばれる人もいるのだが。
ふつうに「おじさん」「おばさん」が教師として生徒の前に立ち、マニュアルにしたがって業務をこなしていれば、子供たちは生徒としてふるまってくれる状態。
それが成立しないといけないのが学校であって、「聖職者」としての生き方が求められたり、「主体的に学び続ける人しか人前に立つ資格はない」と言われたりするのは、教師への要求の度合いとして虫が良すぎるのだ。
もちろん、教えるためには最低限の技術は必要だ。
車に乗るには、イグニッションキーをひねって、ウインカーをカチカチして、アクセルをふむことができないといけない。
赤信号は止まれ、黄色も実は止まれということは知ってないといけない。
自動車免許が必要なのと同じように、教員免許は必要だ。
または板前さんになるのに調理師免許が必要な程度に。
でも、司法試験や国家医師試験に匹敵するほどの資格は必要ない。
というか、それをもとめたなら、日本全国の学校に配置するほどの人材は得られない。
教員免許に問題があるとすれば、免許を取得するための勉強が、学校現場ではほとんど役に立たないという現実だろう。
せめて学生時代に、いろんなバイトをしてみたり、放浪の旅に出てみたりする経験の方が、教育法規の授業2単位取得するより役に立つ。
人とふれあう経験をまったくもってなくても、机の上の勉強だけしっかりできれば、免許はとれるし採用試験にもうかる。
そういう人生しか送らず、学校現場に丸腰ででかけていけば、蜂の巣状態になるのは目に見えている。
きびしい現実を生きているこどもたちの方が百倍したたかだ。その親たちもセンセーを自分より下に見ている。若い先生を手玉にとることなど赤子の手をひねるようなものだ。
寄席にいくと、いろんな芸人さんに出会う。
どう考えても、話の技術の未熟な方もいる。
どう好意的に聞いてても、おもしろくない方がいる。
それでも、噺家さん、色物さんとして生きていかれるわけで、どんな業種でも同じではないだろうか。
すごい人もいれば、おそろしく残念な方もいる。
学校の先生も同じで、残念な先生のせいで何か大きな問題が起こるとしたら、先生個人の問題というより、学校というシステムに依存している内容自体の問題を疑うべきではないのか。