アダムゴープ「アウェイデー」は、たしか西武文理さんがコンクールで演奏されたのを聴いてやってみたいなあと思った記憶がある。昨日のプレコンでも大宮光陵さんのなんとDメンバーがチャレンジされてて、どうしてもやりたくなったので、楽譜を注文した。
なぜかこの時期になると、次に演奏したい曲がたくさんわいてくる。来年のコンクールとか、定期演奏会とか。これは目の前の曲から逃避したい気持ちが微妙にはたらいているような気がする。
目の前の曲も、やっと部員も指揮者も理解してきたような感触はある。
音程やリズムをそろえるのと平行して、どこまで音楽的に仕上げることができるかが今後の課題だ。
昨日の反省会で、「保科先生の曲にしては、少しメロディーがわかりやすいというか、かるい感じですね」というお言葉があった。
たしかに、「復興」の中間部のメロディーは、うまく歌わないと、二時間サスペンスのBGMのような雰囲気になるところがある。
もちろん演奏する側の問題であり、メロディー自体に問題があるとか、サスペンスの音楽がだめというわけではない。
「震災からの復興」という重厚なテーマを表現するためには、そのための吹き方をしなけらばならない。
中身があって、表現がある。
中身のための、表現がある。
ただ … 中身自体はどの曲もそんなに変わらないのではないかとの思いもわく。
「あの曲は中身がない」なんていう究極の悪口もあるけど、そういうことってあるのかな。
たとえば曲を人におきかえたとき、成立するだろうか。
「中身のある人」と「中身のない人」。
おもいきり成立しそうだ。
中身がなくて見た目だけで人生をのりきってきた自分としては、「中身ないですよね」と言われたなら、すいませんとあやまるしかない。
では中身のある人とはどんな人?
たくさんの知識がある人? 難しい言葉を知っている人? 深淵なる思想をもっていそうな人?
そういう人は存在するが、ではそういう人はそのこと自体で評価されうるだろうか。
「あの人はほんとに物事をよく分かっている人だ」というだけで、エライのだろうか。
そのへんになると少しちがわないかな。
物事をよくわかっていて、そのおかげで何かいいことをした時に、エライなあと言われるのではないか。
いくら難しい本を読んでても、その知識が世のため人のために全く使われてないとしたら、知識はなくても他人の為に何か一生懸命やっている人より「中身がある」とはいえないのではないか。
中身のある・なしは、そのこと自体ではなく、それがどう具体化されたことで評価されるべきではないか。
えっと、なぜこんな話になってしまったのだろう。
あ、曲か。
曲の中身の話だ。曲の中身って何?
ひょっとして、誰も定義しえないことのような気もしてきた。
保科先生の『生きた音楽表現へのアプローチ』をいま開いてみたけど、そういうのは書いてないっぽい。
中身とかなくね?
商売道具の方で考えてみると、古来、文学はどんなテーマを扱ってきただろう。
「好きになりました、ふられました。」
「愛しました、死にました。」
「人生って、思うようにはいかないよね」
ほかに何かあるだろうか。
いろんな作品を思いうかべてみても、その核心部分については、名作も駄作も、古典も前衛も、そんな大きな差があるとは思えなくなる。
中身とかなくね?
いや、ないことはないか。
どれも同じじゃね?
この作品のテーマは「愛」です、という言い方をしたなら、相当数の作品がそれにあてはまる。
しかし、名作もあれば駄作もある。
何がちがうのか。
中身ではなく、どう表現してあるか。これにつきるのではないだろうか。
音楽も同じように考えればいいような気がしてきた。
一つの曲の核心部分については、どの曲にもそんな大きな違いは存在しない。
中身に「ある」とか「ない」とか「濃い」とか「薄い」とか「強い」とか「弱い」とかはない。
かりに核心部分がほんの小さなものであっても、どう表現するかによって、3分の珠玉の名品にもなれば、40分の壮大な交響曲にもなる。だから、「どう」の部分をどれだけ読み取れるかが大事なので、やはり指揮者の仕事が大変なのかな。