主人公福山雅治夫婦と、子供の取り違え事件の相手となった夫婦は、リリーフランキーと真木よう子さん。
リリーさんのうさんくささと、美貌の肝っ玉母さん真木よう子さんとのコンビが、いかにもほんとにいそうに見える。
福山父は、学歴エリートで、大企業の一線で活躍し、高そうなマンションで、美しく貞淑な妻、尾野真千子さんと暮らしている。
けっして家庭をかえりみない企業戦士というわけではない。一人息子と遊びもするし、ピアノを教えたりもする。
ただ、ビジュアル以外には自分と共通点がないなと思ってしまうのはなぜだろう。
家族も、仕事と同じように自分の支配下にある、もしくは支配下におかねばならないと思って生きているように見えたからだろうか。
リリーフランキーが「負けたことのないやつは、人の心の痛みがわからんな」と福山を評するセリフがあるが、きっとその「負けない」感覚で自分の家族も運営していきたいと思っているのだ。
負けっぷりなら、こちらはいささか自信がある。
負け上手の自分なら、育てた子供を手放すことについては、もっと葛藤するだろうと思った。
だって〇歳から6歳まで育てた子供と別れられる? やべ。書いてるだけで泣けてきた。
もちろん、あんたが泣けるほどなんかした? って聞かれたら、まあ、オムツかえたり、お風呂入れたり、公園で遊んだり、ゲロ処理したり、おろおろしたり、泣くなよと思ったり、お弁当つくったり、時に仕事に逃げちゃったりしただけだから、母親に比べたら何もしてないレベルではあるけれど。
それでも葛藤するであろう自分を想像できるから、母親はもっととりみだした姿に描いてもよかったんじゃないかな。
そういう意味で、子供も母親もものわかりよすぎて納得できないと感想を述べた妻の心情は、理解できる。
ただそれは是枝監督が男だからわからないとか、描写ができてないという次元の話ではない。
監督は、いろいろ考えたすえ、意図的にこう描くことにしたのだ。
さっき共通点ないと書いたけど、よくよく考えると「家庭を自分の支配下におきたい」気持ちが全くないこともない。
多くの男性諸氏にもあるんじゃないかな。
こうしなければならない、自分の思うようにしたい、という気持ちは。
そういう気持ちが強すぎる場合、現実とのギャップで悩んだり、暴れたり、距離をおいたりしてしまう。
それが「負け」だと思ってしまう。つい勝ち負けを考えるのは、女性よりはるかに単純な思考形態しかもたない男子にありがちな傾向だから。
勝ち組の頂点みたいな福山雅治に、自分の足下の家族を支配下におけないという状況を設定した・
あまりにもわかりやすい設定だともいえる。
そうすることで、家族とか親子って、支配被支配とか、上下関係とかじゃないよね、もっと言えば、別に親だから偉いっていうことないよね、あんた子供のおかげで親にさせてもらってるんだよ、ってそんなメッセージだと思った。
たんたんと場面が積み重ねられていく作品全体は、「そして父になる」という主題に向かって、綿密に構成されている。派手なアクションシーンも、どろどろの感情のぶつけ合いもないけれど、観る人の胸の奥にせまってくる力は、さすが是枝監督と思わせられる(評論家か!)。
「ガッチャマン」と「パシフィックリム」とではあまりに格がちがうように、SFアクションもので邦画がハリウッドにかなう可能性は今後もたぶんゼロだが、人情の機微を描かせたら「舟を編む」「箱入り息子の恋」「ペタルダンス」「そして父になる」 … 、アメリカにはない秀作が今年もたくさんあった。
それにしても、ショッピングセンターのフードコートに並んで座る二人のお母さんが、尾野真千子さんと真木よう子さんであった … 、そんな奇跡のショットに出会いたいものだ。