映画「謝罪の王様」は、「謝罪師」を名乗る阿部サダヲの関わった6つのエピソードがおもしろおかしく描かれ、一見別々だったそれらが最後に一つにまとまっていく構成は、さすがクドカンだと思う。
細かいネタ、仕込まれたギャグを一気に回収していくのも、「あまちゃん」同様にあざといぐらいに上手い。
別々のお話をつなげていくのに有効なのが「視点」の役割で、映画であればカメラの視点、登場人物Aの視点、Bの視点といった複数が意図的に使い分けられ、うまくブレンドされていくと、「なるほど!」となる。
小説でも同じだ。
Aさんの視点から見るとこう見えたことも、Bさんの視点ではこう見える、というように複数の視点があると、物語は重層的になり、立体感が生まれる。
一見悲劇が喜劇にもなり得るし、救いのないストーリーに光がさしたりもする。
AとBは、今の自分と昔の自分でもいい。
独りの視点で語り続けることによってたどりつける境地もある。
まじめ系・純文学系の作品はこっちが多いかな。
ここ数年、センター試験の小説問題でもこれはしきりに問われるようになり、埼玉県の高校入試問題にも随分出題されているではないか。
時代は変わった。その昔、「視点」という用語を知っている国語の先生の方が少なかった(もちろん、おれも知らなかった。あれ? ひょっとしたら昔習ったかな。イーザーやバルトの話をしてくださった深川明子先生の授業って、そういうのあったかな。おぼえてねえし。すいません)。
高校入試レベル、つまり中学生だったら、「視点」という言葉を知っているかどうかだけで随分ちがうんじゃないだろうか。
個別相談をしていると、「国語が苦手です」と訴える生徒さんに出会うこともけっこうある。
「必要なことをちゃんと習えば、上がるんだけどなあ、しかもその必要なことって意外と少ないんだけどなあ」と思いながら、「しっかり北辰テストの復習しよう、国語って唯一問題文の中に答えがすべて書いてある科目なんだよ」とアドバイスするようにしている。
ただし、表現の問題に関しては、用語とその働きを知っているかどうかは大事だろう。
たとえば、23年度の入試問題には、小説の最後で「本文の表現の仕方や文章の特徴について述べたものとして、適切でないもの」を選びなさい、という設問が設けられている。
おそらくセンター試験をまねてつくった形式だろう。
選択肢オはこうある。
オ この文章は、「私」と立岡先生の二人の視点が交互に入れ替わりながら描かれているため、それぞれの人物の心情が読者に直接的に理解しやすくなっている。
「視点」て何? という生徒さんがいたら、解けないはずだ。そして、おそらく現時点でもそうだと思うけど、中学校の国語の先生全員がこれを教えてらっしゃるとは思えない(ちがってたら、すいません)。
ちなみに、公立入試に出る小説で、複数の視点が入り乱れるというのは考えにくいので、プロの目から見ると、本文を読まなくても、これは「適切でない」ものだろうという予想はついた。
24年度の問題も同じだ。選択肢アはこんなの。
ア 心、原口、亀井などの複数の登場人物の視点から、それぞれの人物の心情が表現されており、読者が登場人物の心情を客観的に理解できるようになっている。
これは、プロでなくても、本文を読まずに正解できないといけない問題。
それぞれの人物の視点で語られている心情は、その人がどう感じているだけを述べているということだ。
だから、客観的ではなく、思い切り主観が表現されている。
用語の意味と、その働きとの二つを理解するようにしておくと、県立入試も、センターも大丈夫だ。無理しなくても、県立さんではなくうちに来てくれたらがっつり教えるけど。