自分の感情は、ある程度コントロールできるようになると、佐藤優氏は述べる。
たとえば日々の暮らしの中で、時として大きな怒りがわいてくる瞬間は、人として当然ある。
瞬間的にその感情を爆発させて解消する手もないではないが、なかなかそうもいかない局面も多い。
よく言われる方法ではあるが、そんなときにはその気持ちや原因、そうなった状況を紙に書き出してみる。
そうやって自己の感情を客観化することは、すなわち自分そのものを客観的に見ることであり、その作業によって自分を見る力がそなわってくる。
これは、ほんとうに高校生達にも実践してほしいものだ。
感情を抑えられないこと自体はしょうがないにしても、客観化するどころか、LINEやTwitterで拡散する者までいる時代になってしまった。
本来、未成熟な人間が利用してはいけないツールが広く出回ってしまっている。
あと、自分の感情に向き合うには、ある程度の知識や経験も必要だという。
たしかに、それはその通りだろう。
人生の修羅場を数限りなく経験してきた人は、たいがいのことに動じなくなっているように。
あ、教員もまったく同じだな。
若いころは、生徒さんのちょっとした言動にいちいち怒りを覚えるようなこともあったが、それは自分の想定を越えたものであったからだ。
大概のことは起こりうると思える今は、やみくもにキレることは少なくなった。そんなことも、こんなこともあり得ると思って見られるようになったので。経験の力は大きい。
でも人は、この世のあるとあらゆる経験を独りで積むことはできない。
そういうとき、本を読んで疑似体験するのは重要だと佐藤氏は述べる。
よい小説や映画に触れて、いろんなことを疑似体験するのはきわめて重要だと言う。
そっか。そうだよね。もっと本読んで、もっと映画をみるようにしよう。
その佐藤氏のおすすめの小説としてあがっていた、綿矢りさ『ひらいて』を読んでみたら、なるほど佐藤氏がすすめるだけのことはある、女子高生の心情をこのレベルまで作品化したのってなかなかないんじゃないかなと思えた。
昔読んだ『蹴りたい背中』『インストール』は、それほど印象に残ってないが、まさかこんな作品を書ける作家さんになっているとは。
~ 予備校の帰り、マクドナルドに受講生の仲間たちと寄って、深夜十二時過ぎまでたむろするのが日課になっている。勉強の息抜きのためではなく、自分だけが置いて行かれるんじゃないかって不安を、くだらないおしゃべりでまぎらわせているだけ。安い連帯感、水面下の足のひっぱり合い、私たちの未熟さを、深夜にファーストフードは気軽に許してくれる。
あー勉強しなきゃな、と言ってマクドナルドでポテトを食べている男子たちは、夜が深まれば深まるほどギャグが冴えわたるから、思わず大きな声を上げて笑ってしまう。私とミカが笑うと、男子たちはハチミツを与えられた熊のようにとろけた笑顔になり、ますますエンジンがかかる。だから、サービスも込めてのびのびと笑う。 (綿矢りさ『ひらいて』新潮社)
学校帰りに木野目交差点のマックに寄ってやり残した仕事をしながら、中学生、高校生の会話を聞くともなく聞くと、まさに綿矢氏が活写する光景が繰り広げられている。
言うまでもないが、同世代の男女では圧倒的に女子の方が大人だ。
男子はそれに気づかないし。
話を聞きながら、男子ってほんとにばかだよなと思う。
そして彼らに言っておきたい。たとえば30年経っても、おまえらはばかのままだ。
うそだと思ったら、おれをみればいい。
そうやって女子の掌のうえで生きていくのが男だ。それは生物学的にもともとそういうものなのだからしょうがないのだ。
そんな男子のなかにも、多少は考えている子もいて、そんな男子を好きになってしまった女子高生「私」が描かれる。
~ 彼の瞳。
凝縮された悲しみが、目の奥で結晶化されて、微笑むときでさえ宿っている。本人は気づいていない。光の散る笑み、静かに降る雨、庇の薄暗い影。
存在するだけで私の胸を苦しくさせる人間が、この教室にいる。さりげないしぐさで、まなざしだけで、彼は私を完全に支配する。 ~
しかし、彼には他に好きな人がいた。「私」はその女の子に接触する。
文字通り接触し、それは性的な接触にまで発展し、彼女の心を操ろうとする一方で、彼の心もをひらいていこうとする「私」の物語だ。
高校生の恋愛という範疇をこえて、人に心のどろどろした部分がうかびあがり、しかもそれが読者それぞれの内面も照射する。
すぐれた小説は、読む者の息があらくなってしまうほど、疑似体験させるものだとあらためて思った。