ある中学校で、先生は何年ぐらいいらっしゃるんですか、と尋ねられ答えると、え、長いんですね、じゃ、何年生まれですか、へえ、うちの上の兄と同じだ、てっきり同じくらいの年齢かなと思って話してました、って話になった。
そうなんですよ、前の東京五輪のときには、この世に居たんですよね … 。
前回の記憶はないとはいえ、二度夏のオリンピックを経験できる人生というのは、実は幸せなのではないかと思った。
そっか、7年後に語ろうかな「前の五輪のとき、日本はこんなだったんだよ」って。
そういう言い方してても不思議に思われない年齢になっているような気がする。
橋本治『初夏の色』には六つの短編が収められている。自分と年齢の近い主人公のものが多く、東京五輪、高度成長、一人立ちして、家族をつくり、そして大震災の経験という歴史が描かれる。
橋本氏にこれを書かかしめたのは東日本大震災の経験だ。
直接被害にあった地域や当事者を描いた作品ではないけれど、ふつうに生きてきて、人生のある一点において想像もしていない天災に出会ってしまえば、人はそれを「なし」にしては生きられない。
重松清『ファミレス』も、ストーリーのメインの筋ではないけれど、やはり主人公の人生に震災はいろんな形で影響してくる。
~ 大津波の襲来から一年二ヶ月近くたって、町を埋め尽くしていた瓦礫の撤去はだいぶ進んだ。仮説住宅に暮らすひとたちの話題にも「これから」のことが増えてきた。
だが、その一方で、プレハブの棟割りが並ぶ仮設住宅には、孤独が重くたちこめている。(重松清『ファミレス』日本経済新聞出版社) ~
主人公の奥さんが被災地のボランティアにでかけ、きてみなければ決してわからない空気感を感じるシーンだ。
重松清氏も、こんな場面を書く日が訪れるなんて予想してなかっただろうなと思う。
ほぼ同世代の重松氏の作品は、その膨大な作品群のすべてを読むことはもちろんできないが、折々手に取ってきた。作者自身の年齢と近い存在を主人公にしてくれるので、そのつどリアルな感覚で読むことができた。
たとえば万博を観に行ったときの記憶を主人公が語ると、そうそう、そんなだったと一気に共感できる。
読み始めたころは、小学生の子を持つ親が描かれ、その子どもたちが中学生になると親もアラフォーになる。
10年ちょっと前に、アラフォー世代の生活実感をしみじみと描いてくれた『ビタミンF』は見事直木賞をとり、久しぶりに手にした『ファミレス』では、子どもが大学生になっていた。
親はアラフィフとなり、子どもが家を出て行って何十年かぶりに二人で家にいる夫婦のとまどいと、人生を見つめ直す気分が、なかなか切実にせまってくる。
子供時代にファミレスが存在しなかったわれわれ世代にとって、ファミレスでのは外食は憧れの対象だった。そこでの食事内容そのものではなく、そういう空間に気軽にいって家族それぞれが好きなものを食べるという光景は、子供時代に想像もできないことだった。そんなことをする大人(父親)になるなんて誰も想像していない。
そして現代、ファミレス利用者におけるファミリー利用率はずいぶん下がっている。
自分のファミリーとは距離をおいた、個人個人の居場所になっている観もある。
普通に生きている一般人の人生って、変化のない日常の積み重ねのようだけど、けっこうみんな激動しているのではないだろうか。