年末の朝日新聞に、「生徒が主体的に学ぶ「AL」推進計画、高校の1割」という記事が載っていた。
東大と河合塾の共同で、「AL」授業を普及させるプロジェクトを進めていると記事は紹介する。
現状はどうなのかを先ず全国的に調査した結果、学校として取り組みを始めているのは全体の約1割にとどまっている、と。
個人的には1割の学校がすでに始めていることがむしろ驚きだった。
てか「AL」が何の略かなんて、みんな知ってる?
「あっ、ラインさらされてる!」じゃないよ。
かりに「アクティブ・ラーニング」って言い換えられたとして、どういうこと?
来年改訂される新しい学習指導要領では、この「アクティブ・ラーニング」が一つの骨子になっているという。
指導要領の改訂は、時代の必要性よりも文科省の仕事創出のために行われるのがその本質であることを、多くの人は気づいているだろう。
彼らがお給料をもらうためには仕方ないし、どんな仕事にもそういう側面はあるとは思うものの、直接影響を受ける現場の教員としては複雑な思いを抱かざるを得ない。
変化を嫌い、他人から指図されることを最も嫌う人種である私達教員が、頼んでもいないのに、ああしろこうしろと言われるのだから。
幸い(幸いかな?)私立学校の教員は、公立学校よりは融通がきく。
新しい指導要領にしたがって教育課程はつくるけれど、レポートも出さなくていいし、視察もない。
表面的には新しくしながら、勉強の本質を失わない教育活動を粛々と行っていくという形で自己防衛するしかない。
組織の維持や、政治家の自己アピールを目的とした施策に、本来の仕事を見失わされるようなことがあってはいけない。
直訳すると「能動的学習」だけど、自分的には「能動的」でない活動は「学習」と思えないので、言葉自体に違和感を感じてしまう。
いや、わかってるよ。
この言葉をもちだした人は、高校で行われている普通の一斉授業は「AL」じゃないと考えているのだ。
黒板をノートに写しながら、先生の話を聞いているだけの「受身」の授業では、いけないと。
気持ちはわかる。
「おまえら、頭働いてるのか!」「自分で考えろ!」と叫びたい時は、日々の授業のなかでは確かに多々ある。
じゃ、グループで話し合いをすれば「アクティブ」になるのか。
「プレゼン」のまねごとをすれば、「学習」になるのか。
人前で意見を言うのは大切だ。
まず言おうという考え方はありうる。
討論、ディベイトは、いかにもアクティブに見える。
とりあえずやってみようという考え方もありうる。
しかし形をとりいれば必ず学習の中身は変化するかといえば、当然そんなことは期待できないのが現実だ。
二学期の現代文で、志賀直哉「城の崎にて」を読んだ。
「この小説を題材にして、『死』について考えてみましょう。班ごとに話し合って、その結果を発表しましょう」的な実践報告が、このさき間違いなく出てくる。
たかだか十数年の人生経験しかない生徒たちに、「城の崎にて」で「死」を考えさせてどうする。
肉親を失ったとか、紛争地帯で暮らしたことがあるとか、特殊な経験をした生徒さんなら、それなりに実感をもって考えられるかもしれない。
しかしほとんどの子は、せいぜいペットが死んだのと、いもりが死んだのを重ねてみる、ぐらいがいいところではないだろうか。
「城の崎にて」の主題は「生と死」である、ぐらいにしか読み取れない教員も同じレベルかもしれない。
勉強とは何か。
人間の中にどういう変化がおきることを、学んだというのか。
それをおこさせる手段として、われわれはどういう手段を講ずるべきか。
表面的に「アクティブ」であれば、自然によい結果がもたらされるという、うまい話はない。
一斉授業で「学び」を生み出せない人が、形をかえて何かを生み出すとも思えない。
いつのブログだったか、忘れたけど、ユメタンの木村達哉先生が、こう書いていた。
~ 生徒たちは沈思黙考しながらアクティブラーニングを行います。~
さすがだ。木村先生に気持ちを汲める気がする。
きっと文科省のお役人さんの前で講演されたときも、しれっとこんなことを語っていたにちがいない。
メジャーになっても全然枯れてない。自分もがんばろう。
とにかく、ちょーアクティブな授業しよう。外から見てもわからないような。