作曲家の後藤洋先生が、志ん朝師匠の「文七元結」を数百回聴かれていると書かれている(「バンドジャーナル」2月号)。
「文七元結(ぶんしちもっとい)」とは落語のネタで、人情噺の名作として(たぶん)一番有名なものである。
後藤先生も落語を聴かれるのかとうれしくなったけど、さすがだ、自分は数百回は聴いてない。
圓生師匠のCD(昔はカセットで)と、志ん朝師匠のを十回ぐらい、喜多八師匠、談春師匠のを2、3回といったところだろうか。
ライブでは、小朝、遊雀、志らくといった師匠方のを聴いた。ちなみに快楽亭ブラック師匠の「文七ぶっとい」も名作なのだが、詳細をここに書き記すことはできない。せっかくメジャー化してるのに、品位の面で霜栄先生のようなバッシングをうける危険性がある。
これまでに聴いた落語の中で一番のものは何かと問われたら、はっきりと答えがある。
コンサートでもお芝居でも、「一番よかったの何?」の問いに明確に一つを答えるのは難しいけど、落語は決まっている。
2001年の春、池袋演芸場で聴いた志ん朝「付き馬」だ。
客席数100弱の池袋演芸場だが、それまで満員の風景をみたことはなかった。
志ん朝が池袋にあがるというだけで、落語ファンは欣喜雀躍し、連日開演前から列をつくった。
その日高座にあがったすべての芸人さんが、満席の様子におどろき、「こんなことは池袋ではないんですよ」と語った。「いま、志ん朝師匠(楽屋に)入りましたよ」と実況してくれる方もいた。
でも、どんな方が出演されてたのか、一つも思い出せない。才賀師匠がいたかな。
いよいよトリの出番、出ばやしがなる。
いつもどおり少し前かがみで、機嫌がいいのか悪いのかわからないような表情で登場し、深々とお辞儀をされる。
「いっぱいのおはこびで、おんれい申し上げます … 」
ああ、書いてたら思い出して泣きそう。
ネタは「付き馬」。
まくらの部分はCDとほぼ同じだが、噺に入るとCDとはちがう部分にも気づく。
マイクを通さない生声は、ハリといい、きっぷのよさといい、単語の意味など関係なく音声としてだけ聴いていても心地良い。超満員の客席はどかんどかん笑う。笑うべき場所でみな一体となって笑う、すぐ笑いを収め次の言葉を待つ。
あれほど幸せな落語体験は、おそらくこの先もさすがにできないだろう。
仕事をやすんで十日間通った落語ファンもいたことを、後に知る。
おれも有給をとって、せめてあと二、三回行けばよかったかなとの思いは、数ヶ月後に志ん朝師匠が亡くなられてから強くなった。
たった一日でも行けて、幸せな百人強の一員でいられたことは、自分の宝だ。
生の高座のすばらしさ、落語という日本の文化のすばらしさを体感できた。
まがりなりにも言葉がらみでおまんま食べてる者として、糧になった。
後藤洋先生は、生の演奏会に足を運ばなければならないと述べている。
ネットでただで手に入るものにろくなものはない、お金を払って会場に足を運べと。
今も、時折志ん朝師匠のCDを聴く。談春もブラックも聴く。
それはしかし、寄席や独演会で聴くのとは、まったく別物だ。
音楽も、CDとコンサート会場とでは、後藤先生がおっしゃるように別のものなのだ。
ということで、今日はシエナウインドオーケストラの演奏会に出かけます。