水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

「富嶽百景」の授業(2) 太宰治が生きた時代

2016年01月25日 | 国語のお勉強(小説)

 

1 明治維新に始まる近代化への歩みは、西欧の制度やもの考え方を一気に日本に取り入れようとする形として具現化されていった。
 制度は変わっても、人々の頭のなかは容易に変わらない。
 たとえば「平等」という概念が言葉で伝わったとしても、その内容を実感できた人は少ないだろうし、現実の世の中の様相とはかけ離れている。
 「へぇ、西洋にはそんな考えがあるらしい」と他人事のようにとらえる一般人には特に問題はない。
 しかし、その思想を知り、「すべての人は平等であるべきだ」と思いこんでしまった知識人にとって、現実の日本の世はきわめて理不尽にうつったことだろう。
 キリスト教を前提にした西欧独特に一つの考え方にすぎないと、相対化できた知識人は少なかったはずだ。これは今もそうだが。
 新しい考え方を本気で取り入れようとする人々は、現実と理論のかけ離れた状態に苦悩することになる。


 ~ 阿部謹也「個人と世間」

 我が国においては個人は長い間西欧的な個人である前に自分が属する人間関係である「世間」の一員であった。したがって何らかの会合において発言する際には個人としての自分の意見を述べる前にまず自分が属する「世間」の利害に反しないことを確認しなければならない。まず「世間」人として発言しなければならなかったのである。自分自身の意見は本音として「世間」の蔭に隠れていた。「世間」を代弁する発言はこうして個人にとっては建前となり、本音と区別されたのである。こうして「世間」と個人の関係の中で我が国における建前と本音の区別が生まれたのである。
 このような建前と本音の違いがくっきりとした輪郭をもって現れたのが明治以降の我が国のあり方、特に近代化、西欧化との関係の中においてであった。明治政府は欧米の近代化路線を採用することを決めた。しかしその際に真の意味で我が国を欧米化することが考えられたわけではなく、少なくとも社会構造や政府機関の組織、軍制や教育などの面での近代化が考えられていただけである。制度やインフラストラクチャー(組織などの下部構造)の面での近代化にすぎず、西欧精神の面にまで視線が届いていたわけではなかった。つまり表面の近代化に過ぎず、精神の面では旧来の路線の上ですべてが考えられていたのである。
 … こうして建前と本音の世界の区別が生まれたのである。人々は公的な発言をする際には常に欧米流の内容を主として発言し、公的な場を離れたときには自分の「世間」に即して本音でしゃべったのである。明治以降我が国はこのようにして理念の世界と本音の場の世界との二つの極をもつことになり、特に知識人の場合はその相克は深刻なものがあった。 (阿部謹也『教養とは何か』より) ~


2 文学も近代化した。
 色恋沙汰や勧善懲悪を主眼とする江戸時代の娯楽としての文学から、人間の現実を描こうとする芸術としての文学が模索された。
 言文一致、写実主義、自然主義という文学の潮流が生まれる。
 近代国家において、人々は、藩、村、家の呪縛から解放され個人として尊重されるようになるはずだった。
 しかし現実には、制度や組織が変わっても、日常においては、人は昔ながらの人付き合いをしながら暮らしていく。
 理想と現実の間に生まれた葛藤や苦悩を、そのまま描こうとするのが近代小説である。
 明治後半、産業革命が進み、資本主義社会として巨大化していく日本において、社会と個人との間に生まれる軋轢は益々大きくなる。
 社会側を糾弾しようとするするプロレタリア文学、徹底して個人を掘り下げようとする私小説の二方向に、文学が大きくかじをとったのは、時代の必然だった。

3 明治の終わり、青森の豪農に生まれた太宰治は、なまじ頭がよかったゆえに、近代国家へと歩もうとする日本社会に生じている歪みをわがことのように感じたのであろう。
 今なら「中二病か?」と相対化し、いろんな昇華の方法を探しえたかもしれない。「近代的自我」を本当に持ってしまったがために、持ち得ない一般人の苦悩まで含め、すべてを背負ってしまった作家であると言える。


近代社会の論理
 藩・村・家・血族など = 前近代的なしがらみ(桎梏・くびき)
    ↓解放
  個人・自我

現実の社会
 従来通りの人間関係 = 村社会・世間
    ↓しばられたまま
 従来通りの存在(誰それの子ども、どこそこの誰 … )

  個人  ←→  世間
    理想 ←→ 現実
    ↓
   葛藤・苦悩  → 近代文学


太宰治 1909(明42)年~1948(昭23)年
 青森県津軽地方の豪農の家に生まれ、幼い頃から文才を発揮する。
 東大仏文科中退。井伏鱒二に師事し、戦後は坂口安居、織田作之助と交流を深めた。
 作品に、「晩年」「富嶽百景」「女生徒」「駈込み訴え」「走れメロス」「故郷」「斜陽」「人間失格」など、自らの経験に材をとった小説を書いた。

私小説(ししょうせつ/わたくししょうせつ)
 作者が直接に経験した事柄を素材にして書かれた小説。
 一人称「私」の視点で世界を描写し、その内面を描く。

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「富嶽百景」の授業(1) 太宰治の年譜

2016年01月25日 | 国語のお勉強(小説)

 

太宰治 1909(明42)年~1948(昭23)年

1909年(明治42年)青森県、津軽郡金木村の大地主、津島家の六男として生まれる。父の源右衛門はのちに貴族院議員をつとめ金木の殿様と称された。

1916年(大正5年)7歳。尋常小学校入学。

1923年(大正12年)14歳。父親が死去し、長兄が家督を継ぐ。青森中学校に入学。

1925年(大正14年)16歳。校友会誌に最初の創作を発表。友人と同人誌をつくり、数々の作品を発表する。

1927年(昭和2年)18歳。弘前高等学校に入学。敬愛する芥川が自殺し衝撃を受ける。学業をおろそかにし、花柳界に出入りし、15歳の芸妓小山初代と知り合う。

1929年(昭和4年)20歳。左翼思想に傾倒する。自殺未遂。資産家の子という自己の出身階級への悩みか。

1930年(昭和5年)21歳。東京帝国大学仏文科入学。井伏鱒二に師事。左翼運動にも関わる。芸妓の小山初代を出奔させ上京させる。カフェの女給の田部シメ子と鎌倉で心中をはかるが、太宰のみ生き残る。

※ 心中(しんじゅう) … 男女がお互いの心の真実(まこと)を誓いあい、その究極の形として死を選ぶこと

1931年(昭和6年)22歳。小山初代と暮らし始める。

1932年(昭和7年)23歳。非合法活動から離れ、執筆に専念する。

1933年(昭和8年)24歳。卒業できず留年。「魚服記」「思い出」

1935年(昭和10年)26歳。都新聞の入社試験に失敗。鎌倉で自殺未遂。第一回芥川賞候補になるも落選。「逆光」「道化の華」
                               
1936年(昭和11年)27歳。薬物依存を治すために入院。「晩年」

1937年(昭和12年)28歳。入院中の妻初代の不貞を知る。谷川温泉で心中未遂。初代と離別。「二十世紀騎手」「ダスゲマイネ」「虚構の彷徨」

1938年(昭和13年)29歳。井伏氏の勧めで天下茶屋に逗留。石原美知子と婚約する。

1939年(昭和14年)30歳。「富嶽百景」「女生徒」

1940年(昭和15年)31歳。「駈込み訴え」「走れメロス」

1941年(昭和16年)32歳。長女園子誕生。「東京八景」「新ハムレット」

1942年(昭和17年)33歳。「正義と微笑」

1943年(昭和18年)34歳。「故郷」

1944年(昭和19年)35歳。「津軽」

1945年(昭和20年)36歳。空襲をのがれ甲府に疎開、さらに津軽に移る。終戦。「御伽草子」「惜別」

1946年(昭和21年)37歳。妻子とともに三鷹の自宅に帰る。坂口安吾や織田作之助と交流を深めた。「パンドラの匣」

1947年(昭和22年)38歳。次女の里子(津島佑子)誕生。長兄文治が青森県知事に就任。『斜陽』がベストセラーになる。愛人太田静子との間に娘(太田治子)が誕生し認知する。山崎富栄と出会う。「トカトントン」「ヴィオンの妻」「斜陽」

1948年(昭和23年)39歳。過労と乱酒で結核が悪化。山崎富栄と玉川上水に入水する。6月19日に遺体が発見された。「桜桃」「人間失格」「グッド・バイ」

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