学年だより「志」
「自分は何をやりたいのか。」「自分は何をやるべきだと思っているのか。」「自分はどんな人になりたいのか。」これらの三つの文の実質的意味は同じだ。
自分とは「志」のことである。
明治時代の文豪幸田露伴はこう述べる。
~ いわゆる志を立てるということは、あるものに向かって心の方向を確定することで、いいかえれば、心に何を持つかということだ。だからこそ、心にもつものが最高最善のものでなければならないのは自然の道理である。それゆえに、志を立てるときは、その志が堅固であることを願う前に、まず志が高いものであることを願うべきである。そして志が立ったあとで、それを堅固なものにしたいと考えるべきだ。 (渡辺昇一編『幸田露伴「努力論」を読む-人生報われる生き方』三笠書房) ~
まず目標を「持つ」こと。そして、その目標はできるだけ「高く持つ」ことが大切だと言う。
なぜ高望みすべきなの。
目標を持つときに、人は現在の自分を基準に考える。しかし、人は成長する。
レベルが1ステージあがると、それまで見えなかったものが見えてくる。
今の自分にとってはとんでもない高望みだった目標が、一年後の自分には手の届く範囲になっていることはよくあるものだ。
~ 七、八歳のころ持ち上げられなかった石でも、大人になれば簡単に持ち上げられる。七、八歳の自分が、大人になった自分に及ばないのは当然のことだ。学問修業中の青年時代の自分が、やや学問の積み重ねができた壮年の自分に比べて劣っているのは明白なことである。ならば、現在の自分を基準にして将来の自分を決めつけてしまうような考えを抱くのは、なんとも愚かしいことである。それよりも、今はただ当面の学問に真剣に取り組むのみだ。何を苦しんで自らを小さくし卑しめ、限定し狭める必要がどこにあろうか。 ~
小学校、中学校と勉強に勉強を重ね、努力の限りをつくして、持てる能力のすべてをふりしぼってこの川東に入学してきた人は少ないのではないかと、日頃の皆さんを見てきて感じる。
むしろ、それほどちゃんと勉強はしていない、勉強のやり方を知らないままなんとなくここにいるという人の方が多いのではないか。
だとすると、ほとんどの人は、とんでもない伸びしろを持っていることになる。
それをムダにするのはもったいない。
やり方を知り、実際に少しやってみることで、一気に見える世界は変わってくる。
いまの皆さんに大事なのは、とにかく高い目標を設定してみることだろう。