学年だより「笑顔(2)」
鹿児島県の種子島で生まれ育った浜田さんは、高校卒業後、島にある雪印乳業の工場に就職した。幼い頃神童と呼ばれるほど学業優秀で、自分で詩集をつくるほど文学好きだった浜田さんは、早稲田大学文学部への進学を考えていた。しかし高3の秋に父親が急逝する。自身さんはもとより、弟たちも中学を出たら働けと言う親戚たちを、自分は働くから弟たちは進学させてほしいと説得し、一家を支えることとなった。
5年後、営業職として長崎に転勤しないかという打診を受ける。妻帯者として転勤すれば手当が高額になると聞かされ、密かに憧れていた同僚の女性に「一緒に行く?」と廊下で声を掛け、二週間後に結婚すると長崎に向かった。
はじめは都会の暮らしと、営業の仕事そのものに慣れることができなかったが、奥さんの支えもあり徐々にその力を発揮していった。取引先の会社の社歌を作詞してあげたり、自作の詩集を再びつくるようにもなった。
35歳でサラリーマン生活をやめると、お茶の販売会社を立ち上げる。軌道に乗ったその会社を親族にまかせ、今度はあらたにスーパーマーケットの経営に乗り出す … 。
順調のはずだったが、親族にまかせていた会社が立ちゆかなくなっていることがわかった。その時点では既に手を離れていた会社ではあるが、任せきりにした自分に責任があると思い、負債の全てを一人で背負うことにした。
浜田さんは、離婚届を勝手に書いて役所に提出する。種子島の実家にもどってほしいと妻に頭を下げると、「あたしはずっとあんたのファンやから一緒におる」と涙ながらに奥さんは答える。
「ねえ、なんで二人でラブラブごっこやってんの、大事なこと勝手に決めて」と口を尖らせたのは、中3だった長女である。「おもしろそうやから、あたしたちもお父さんと一緒にいてやるわ」と3人の娘たちが笑いながら話す。
自宅を手放し、落ち着くところを探し、あてもなく九州各地に車を走らせ、ガソリン切れで車をとめた高速道路の高架下、ワンボックスカーで一家は生活を始めた。熊本県の益城町である。
近くにラーメン屋があった。ラーメンを食べに出かける余裕はなかったが、店の休憩時間に顔を出し、新聞を読ませてもらった。お礼にと皿洗いを手伝ったりしているうち、いつしか店主と昵(じっ)懇(こん)となり、実は焼き肉屋をやりたいというその店主から店を譲り受けることになった。
平成元年、ラーメン屋を始めて4年目の春のことである。店の近くに障害者福祉施設ができることになり、完成間近のその施設に初めてラーメンを出前に行った。
~ 完成間近の施設から出前の注文を受けた私は、岡持ちを下げて玄関に入りました。
少年がこちらを見ています。やがて彼は何かを叫びながら突進してきます。私は後ずさりましたが、少年はなおも何か言いながら、しかし静かに手を差し出したのです。そして岡持ちを握ると先に歩き始めました。 (濱田龍郎『貧者の一灯』熊日出版) ~