学年だより「神様メール(2)」
エアが人々に送信した余命情報は(神の娘だから)、本物だった。
こんな元気な俺がすぐ死ぬわけないだろとインタビューに答えていた若者に、トラックがつっこんでくる。余命数十年の青年がビルから飛び降りてみたら、歩いてきた人にぶつかって助かる。
寝たきりの年老いた夫のスマホに「余命22年」、献身的に介護していた若い妻のスマホには「余命3年」と表示され、もう少しの辛抱だと思ってたのにと、妻は怒り狂う。
紛争地帯では、ばからしくなった兵士達が戦闘をやめてしまう。
自分の余命が残り少ないと知った人たちは、いやなことを我慢しなくなり、会社をやめたり、好きな人に告白したりする。これまでと同じ日常をおだやかにすごそうと決意する人もいる。
神様は苦々しい思いで下界の様子を見ていた。
「くそ、このままでは、人間がみんな素直になってしまうではないか!」
とにかくパソコンを元にもどさなければならない。そのためには、娘を連れ戻すしかない。神も洗濯機の中に入り、人間界を目指すことにした。
スマホを見たら、数字が表示されている。
その数字は自分に残された人生の時間であり、100分の一秒単位でカウントダウンし続ける。
本当にそんなことになったら、なかなか切なく、辛い状況になるのではないだろうか。
ごはんを食べるにしても、友だちと会話するにしても、減っていく時間を気にしてしまいそうだ。漫画を読んだり、音楽を聴いたりするときも、本当に厳選したものした楽しめないかもしれない。そもそも楽しめるのか。あれこれやってみて、普通に生きようという境地に達するかもしれない。
ららぽーと富士見などで上映中の映画「神様メール」は、一見はちゃめちゃなコメディでありながら、本質的な問題を問いかけてくる見応えある作品だった。
神が神であるゆえんは、人間の余命を知っていることである。
われわれが人間である所以は、余命を知るよしもなく生きていかなければならないことである。
「今日で一生が終わるとしたらどう生きるか。それを常に考えて行動せよ」と解く本がある。
なるほどとは思いながら、なかなか本気でそんなイメージを持てないし、だからこそ生きていけるのだとも言える。
しかし、映画の中で、余命を知った人が自分の生き方を見つめ直したように、一瞬でも自分はどう生きたいのかを意識することができたなら、私達も日常を変えられるのではないか。
さて人間界に降り立った神は、どこに行っても、そのあまりに傍若無人な振る舞いをとがめられる。挙げ句の果てに、精神に異常をきたした者と扱われ、捕らえられて強制労働施設に追いやられてしまう。
娘のエアは、兄のJC(イエス・キリスト)を見習って、自分の使徒を見つける。彼(彼女)らの生き方に寄り添い、身体に流れている音楽を聴き、彼らの物語を記録していく。それが「新・新約聖書」になると。そしてエアと母の女神が作り出した奇跡は、世界の人々を幸せにするのだった。