学年だより「アリ・ボンバイエ(2)」
「蝶のように舞い、蜂のように刺す (Float like a butterfly, sting like a bee)」。
大男同士が、リングの真ん中で力ませに互いを殴り合うのがヘビー級のボクシングだった時代に、アリは華麗なフットワークを駆使する戦い方を持ち込んだ。
1960年にプロに転向した後も快進撃は続く。圧倒的に不利と予想された、WBA・WBC統一世界ヘビー級王者のソニー・リストンにも、6ラウンドTKO勝ちをおさめた。
試合後アりは、自分はすでにイスラム教徒に改宗していること、今後はモハメド・アリと名乗って闘うことを表明する。
白人のおもちゃとしてのボクサーになるつもりはないと言い放ち、改名したアリに、多くのアメリカ人は嫌悪感をもった。
当時のアメリカには徴兵制がある。18才以上の男子は検査を受けて登録され、2年の兵役が課される。アリはペーパーテストの成績が悪くて基準を下回り、兵役不適格となった。
しかし、これは意図的な懲役のがれにちがいないと、世論が断罪しはじめる。すると合衆国は、試験後に基準を変え、遡ってアリを合格にしたのだ。
アリは「良心的兵役拒否者」の資格申請を行った。けっして彼が、たんに戦争に行きたくないという自分かわいさで徴兵を忌避したのでないことは次の言葉でもわかる。
~ 「俺の故郷では黒人は犬なみに扱われているのに、なぜやつらは俺に軍服を着て、一万マイルも離れたところに行って、ベトナムの茶色い人々に爆弾を浴びせろっていうんだ? もし戦争に行くことが二千二百万の俺の仲間に自由と平和をもたらすなら、俺は明日にでも入隊するぜ」 (田原八郎『モハメド・アリ 合衆国と闘った輝ける魂』燃焼社) ~
アリの申請は却下され、純粋な徴兵拒否者、つまり国家に対する反逆者となった。
禁固五年、罰金1万ドルの判決がくだされ、ヘビー級のタイトルは剥奪された。1967年のことである。こうして、ボクサーとして最も脂ののった時期に、アリはリングにあがれなくなった。
もちろん、支援者もいた。黒人差別を撤廃させ公民権を勝ち取ろうとする運動は盛り上がりを見せ、ベトナム戦争に対する反戦デモも広がっていたのだ。
そういう人々の声に支えられ、1970年、再びアリはリングに復帰する。ただし、三年半のブランクは大きかった。復帰後、ジョー・フレージャー、ケン・ノートンといったチャンピオンと対戦して敗れた後は、引退やむなしと周囲は考えた。何より「蝶のように舞う」スピード感が失われていたからだ。しかしアリ本人はそんなことはみじんも考えていない。
次の試合のために練習を重ねながら、同時に先の裁判の判決を不服として申し立てを行った。
ボクサーとしての闘いを継続し、同時にアメリカ社会との闘いも続けていたのだ。
その後チャンピオンとなったジョージ・ファアマンと、ついに闘うチャンスを得たのは1974年だった。史上最高のハードパンチャーと言われるフォアマンはこのとき25歳。
32歳になっていたアリに勝ち目はないとする意見が圧倒的だった。