水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

「山月記」の授業(2) 二段落

2016年06月10日 | 国語のお勉強(小説)

 

二段落(2~5)李徴と袁《さん》

2 〈 翌年 〉、監察御史、陳郡の袁《さん》という者、勅命を奉じて嶺南に使いし、道に商於の地に宿った。次の朝いまだ暗いうちに出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に人食い虎が出るゆえ、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、いま少し待たれたがよろしいでしょうと。袁《さん》は、しかし、供回りの多勢なのを恃み、駅吏の言葉を退けて、出発した。残月の光を頼りに林中の草地を通っていったとき、はたして一匹の猛虎が草むらの中から躍り出た。虎は、あわや袁《さん》に躍りかかるかと見えたが、たちまち身を翻して、もとの草むらに隠れた。草むらの中から人間の声で「危ないところだった。」と繰り返しつぶやくのが聞こえた。その声に袁《さん》は聞き覚えがあった。驚懼のうちにも、彼はとっさに思い当たって、叫んだ。「その声は、わが友、李徴子ではないか?」袁《さん》は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少なかった李徴にとっては、最も親しい友であった。温和な袁《さん》の性格が、峻峭な李徴の性情と衝突しなかったためであろう。
3 草むらの中からは、しばらく返事がなかった。しのび泣きかと思われるかすかな声が時々漏れるばかりである。〈 ややあって 〉、低い声が答えた。「いかにも自分は隴西の李徴である。」と。
4 袁《さん》は恐怖を忘れ、馬から下りて草むらに近づき、懐かしげに〈 久闊を叙した 〉。そして、なぜ草むらから出てこないのかと問うた。李徴の声が答えて言う。自分はいまや異類の身となっている。どうして、おめおめと故人の前にあさましい姿をさらせようか。かつまた、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭の情を起こさせるに決まっているからだ。しかし、今、図らずも故人に会うことを得て、愧赧の念をも忘れるほどに懐かしい。どうか、ほんのしばらくでいいから、わが醜悪な今の外形をいとわず、かつて君の友李徴であったこの自分と話を交わしてくれないだろうか。
5 後で考えれば不思議だったが、そのとき、袁《さん》は、この〈 超自然の怪異 〉を、実に素直に受け入れて、少しも怪しもうとしなかった。彼は部下に命じて行列の進行をとどめ、自分は草むらの傍らに立って、見えざる声と対談した。都のうわさ、旧友の消息、袁《さん》が現在の地位、それに対する李徴の祝辞。青年時代に親しかった者どうしの、あの隔てのない語調で、それらが語られた後、袁《さん》は、李徴がどうして今の身となるに至ったかを尋ねた。草中の声は次のように語った。

語釈 勅命…皇帝、天子の命令。
    驚懼…驚き恐れること。
    故人…昔なじみの友人。
    畏怖嫌厭の情…恐れたり嫌悪を覚える気持ち。


Q9「翌年」とはどういう出来事の翌年か。
A9  李徴が発狂して行方不明になったこと。

設定 場所  商於の地
    時間 夜が明けきらないころ
    人物 袁《さん》

袁《さん》…観察御史 中央から派遣された役人
       勅命を奉じ 供回りの多勢
    李徴と同年に進士の第に登り(そうとう優秀)
    温和な性格  李徴の最も親しい友
     ∥
     対役としての設定


Q10「ややあって」とあるが、なぜ李徴は返答すまでに時間を要したのか。60字以内で記せ。
A10 虎になったという事実を旧友に知られたくないという思いと、
   人として会話したいという気持ちとの間で葛藤していたから。


事 故人(旧友)と出会い
   ↓
心 懐かしさ・恥ずかしさ 葛藤
   ↓
行 「いかにも自分は李徴である」


Q11「久闊を叙した」とはどういう意味か。
A11 久しぶりに会った挨拶をした。

Q12「超自然の怪異」とは何か。簡潔に記せ。
A12 昔の友が虎になっているといい、しかし人間の言葉で話しかけてくること。

Q13「後で考えれば不思議だったが、そのとき、袁《さん》は、この超自然の怪異を、実に素直に受け入れて、少しも怪しもうとしなかった。」という一文には、どのような表現効果が意図されているのか。60字以内で説明せよ。
A13  語り手自身が話の異常性を認識していることを表明することにより、
   読者の違和感を減じ、リアリティを確保しようとする。

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音楽的アスリート

2016年06月10日 | 日々のあれこれ

 

  「音楽に取り組む姿勢がなってない、体質としてだめなんだ、だから絵に描いたようなミスをおかすんだ、いやミスというよりそもそも根本的に音楽にできてない」と、先日のバンドレッスンで指導していただいた。
 そんな音を、聴いている人が気持ちよくなれるか! と。
 生徒とともにうちひしがれてしまう厳しいお言葉だった。
 しかし、何よりそれは自分が常々感じているいることでもある。
 そんなところでブレスしないだろとか、何で遅れて出てて平気なの? とか、いつも思い、でもいつもだから慣れてた部分もある。
 なんとかしたい。部員たちの方は、むしろおれより早く立ち直って「なにくそ」と思っているようにも見える。 なんとかなるかな。なんとかしなきゃ。
 楽器を練習するときだけ、曲を吹くときだけちゃんとしようとしてもだめなのだ。
 日頃から音楽をする人としての生活ぶりをしないといけない。
 スポーツ選手は、練習時間だけがんばっているのではない。食べることも寝ることも練習の一貫のようなものだ。
 スポーツに親しむ人ではなく、アスリートとよばれるレベルになるようにならないと。
 たんに楽器をやっている人ではなく、音楽を奏でられる人、音楽を創り出す人にならないと、聴いている人にいい気持ちにはなってもらえない。
 どうすればいいのか、授業中ずっと考えてた。
 「音楽的アスリートを目指そう!」というスローガンを突然思いついたので言ってみたら、わるくないよねという顔を何人かがしてくれた。しばらく使ってみようと思う。
 その中身ははっきりしないけど、なんかいい言葉だ。商標登録したい。

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