三段落 6 李徴の独白
6 今から一年ほど前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊まった夜のこと、一睡してから、ふと目を覚ますと、戸外でだれかが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出てみると、声は闇の中からしきりに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駆けていくうちに、いつしか道は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地をつかんで走っていた。何か身体じゅうに力が充ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えていった。気がつくと、手先やひじのあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映してみると、すでに〈 虎となっていた 〉。自分は初め目を信じなかった。次に、これは夢にちがいないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。どうしても夢でないと悟らねばならなかったとき、自分は茫然とした。そうして懼れた。全く、どんなことでも起こり得るのだと思うて、深く懼れた。しかし、なぜこんなことになったのだろう。わからぬ。全く何事も我々にはわからぬ。〈 理由もわからずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由もわからずに生きてゆくのが、我々生き物のさだめだ(傍点) 〉。自分はすぐに死を思うた。しかし、そのとき、目の前を一匹のうさぎが駆け過ぎるのを見たとたんに、自分の中の人間はたちまち姿を消した。再び自分の中の〈 人間(傍点) 〉が目を覚ましたとき、自分の口はうさぎの血にまみれ、あたりにはうさぎの毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行をし続けてきたか、それはとうてい語るに忍びない。ただ、一日のうちに必ず数時間は、人間の心が還ってくる。そういうときには、かつての日と同じく、人語も操れれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書の章句を誦んずることもできる。その人間の心で、虎としてのおれの残虐な行いの跡を見、おれの運命を振り返るときが、最も情けなく、恐ろしく、憤ろしい。しかし、その、人間に還る数時間も、日を経るに従ってしだいに短くなってゆく。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気がついてみたら、おれはどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐ろしいことだ。いま少したてば、おれの中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれて消えてしまうだろう。〈 ちょうど、古い宮殿の礎がしだいに土砂に埋没するように。 〉そうすれば、しまいにおれは自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い回り、今日のように道で君と出会っても故人と認めることなく、君を裂き食ろうてなんの悔いも感じないだろう。いったい、獣でも人間でも、もとは何かほかのものだったんだろう。初めはそれを覚えているが、しだいに忘れてしまい、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか? いや、そんなことはどうでもいい。おれの中の人間の心がすっかり消えてしまえば、おそらく、〈 そのほうが、おれはしあわせ(傍点)になれるだろう 〉。だのに、おれの中の人間は、そのことを、このうえなく恐ろしく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐ろしく、哀しく、切なく思っているだろう! おれが人間だった記憶のなくなることを。この気持ちはだれにもわからない。だれにもわからない。おれと同じ身の上になった者でなければ。ところで、そうだ。おれがすっかり人間でなくなってしまう前に、一つ頼んでおきたいことがある。
語釈 ~に忍びない … ~にたえられない。
そらんずる … 暗誦する。
Q14「虎となっていた」とあるが、李徴は我が身に起こったこの事実をどういうものととらえたか。7文字で抜き出せ。
A 14 生き物のさだめ(傍点)
Q15「人間(傍点)」とほぼ同じ意味の言葉を4字で抜き出せ。
A15 人間の心
Q16「ちょうど、古い宮殿の礎がしだいに土砂に埋没するように」とあるが、「古い宮殿の礎」「土砂」はそれぞれ何のたとえか。抜き出して答えよ。
A16 古い宮殿の礎 … 人間の心
土砂 … 獣としての習慣
Q17「そのほうが、おれはしあわせ(傍点)になれるだろう」とあるが、なぜそう言えるのか、30字以内で述べよ。
A17 虎の外形を持ちながら人間の心をもつ苦悩から解放されるから。
Q18「しあわせ」ではなく「しあわせ(傍点)」となっているのはなぜか。80字以内で述べよ。
A18 人間の心が失われてしまえば、虎の外形で生きる今の苦しみからは解放されるが、
それは人としての本来のしあわせとは言えないと李徴が考えていることを表現している。
☆ カギ括弧・傍点付きの言葉 … 言葉そのものの意味とは異なること
批判や疑問、特別な意味を付与している状態
事 虎になっている
↓
心 信じられない
↓
茫然 懼れ … 生き物のさだめ(傍点)
↓
行 死を思うた
Q19「理由もわからずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由もわからずに生きてゆくのが、我々生き物のさだめだ(傍点)」は、李徴のどのような心情が表現されているか。60字以内で説明せよ。
A19 自分が虎になった事態を、全ての生き物に起こり得る運命だとあきらめようと思いながらも、どうしても受け入れられない気持ち。
さだめ … 運命
さだめ(傍点) … 受け入れざるを得ないのかもしれないが、本当な受け入れたくないもの
Q20 「おれ」と「自分」をどのように使い分けているか。
A20 おれ … 虎としての性質が強くあらわれているときの自分
自分 … 人間の意識をもっている自分