関西の奥座敷とよばれる芦原温泉は、福井県の北端にある。およそ120年前、田圃に水をひこうと井戸に掘っていたお百姓さんがお湯を掘り当てると、翌年には温泉宿が数件建てられる。明治末に敷設された鉄道のおかげで遠方からの客も増え、戦後は、昭和23年の福井大地震、31年の芦原大火と災害に見舞われながら、そのつど乗り越えて、北陸を代表する温泉街として発展していった … 。
故郷芦原温泉の歴史は、ざっくりこんなところだろうか。
今思うと、自分は街が一番賑やかだったころに幼年期を過ごしていた。高度経済成長期の終わり頃にあたるだろうか。週末や盆、正月は、お隣の旅館から聞こえる三味線や太鼓の音、芸子さんの歌を聞きながら育ち、自分も太鼓の保存会に入って、祭りではぶいぶいいわしていた。
祖父は開花亭という老舗旅館の板前だった。随分あとになって知ったことだが、給料は安かったようだ。両親がその額を聞いて驚いたと話していた。開花亭は、天皇陛下もお泊まりになられたことのある、きわめて格の高い宿だ。そこでこれか、と。でもはぶりはよかった。泊まり客からのご祝儀が相当のものだったのだ。
一番はずんでくれたのは藤山寛美だったそうだ。大阪での公演がはねたあと芦原に訪れて一晩もしくは二晩泊まり豪遊してゆく。料理がうまい、板場さんをよんでくれと呼び出され直接祝儀をもらったぞと、遅くに帰った祖父が上機嫌で話し、両親には言えないお小遣いをもらった。
昭和31年、国鉄三国芦原線の芦原駅前の民家から出た火は、おりしもフェーン現象の風にのり、16軒の旅館、300軒余の民家を焼き尽くした。温泉街の壊滅だった。
ここまでの大火事は数十年前だからこそ起きたのだと思っていたから、先日の糸魚川の大火事には驚いたのだった。
幸いなことに、けがをされた方も少なく、すでに避難所が閉鎖されて公営の住宅などに、みなさん移られたという。もちろん今後の暮らしが簡単に立ちゆかないことは間違いないし、年末年始のゆったりした気分になれないことは本当にお気の毒だ。
ただ、生きていればなんとかなる。一番大事なものだけは失わなかったことは、被災された方だけでなく、その関係の方々にとっても安堵されたことだろう。
芦原大火のときって、焼け出された人々はどうしたのだろうか。今ほど生活インフラがととのっていなかった時代だからこそ、ひょっとしたら現代人よりも耐性があったかもしれない。なにせ、その十年ほど前には戦争を経験していた方々だから。実家の父にきいてみよう。
温泉街の真ん中にある私の生家も、大火で全焼した。その後、新しい家を建てに来た大工が松田正治という青年である。その仕事ぶりが遠縁にあたる水持家に気に入られ、後に婿養子となった。
だから芦原大火がなかったら、わたくしめは、この世にいないことになる。不思議なめぐりあわせだ。
板前の祖父も、仲居さんをしていた祖母と知り合ったのち、婿養子として水持家に入った。長男として私が生まれたことは大変な喜びだったそうで、あまやかされて育ちこんなになってしまった。
大火のときに町の消防団長を勤めていたのは、開花亭の主人である北川昭治氏である。自分の旅館にも火の手は迫っている中で、私情をいっさいはさまずに消火活動を陣頭指揮し続けていた立派さを、幼いころに聞いた。北川氏は県会議員、県会議長も務められ、数年前に鬼籍に入られた。
糸魚川では、十数台のミキサー車を使って徹夜で水を運び続け、消火を手助けし続けた会社があるという。いつの時代にも義に生きる男はいるのだ。目先の利益、自分のことよりも、義を大事にする男。自分もそうありたいし、生徒さんたちも目指してほしいと思う。
今の芦原温泉は、昔ほどの活況はない。生活様式やレジャーの様式もかわったし、何より高度経済成長期にような世の中ではなくなった。とくにバブル以降は経営の苦しい旅館がほとんどだと聞く。
老舗旅館のいくつかも姿を消した。自分にとっては、開花亭がなくなったと聞いたときに、時代の変化をしみじみ感じた。故郷を捨てた自分に何かを言う資格がないことは承知しているが、ときおり帰省したおりに見る町の姿にさびしさは感じる。どんなにさびれたとしても(いや、そこまでではないのですが)、埼玉に住んでいる時間の方がはるかに長かっているとしても、自分が生まれ育った土地であることには違いない。
勝手な感傷をアピールされても、ずっと地元に暮らす人には迷惑だろうから大人しくしているが、盆と正月くらいは仏壇に手を合わせてこようと思う。自分をこの世にあらしめていただいたことに感謝して。
糸魚川の町の復興と、皆様方のご健康をお祈りいたします。