水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

東京ホロウアウト

2020年04月23日 | おすすめの本・CD
 宅配便のトラックに青酸ガスがしかけられたのが最初の事件だった。
 配達員が荷台を開けたとき、刺激臭をかかぎ、頭痛を訴えて救急車で搬送される。コンビニで受け取った荷物にしかけられたという事件だった。東京オリンピックの開会を数日後に控え、警備にあたる部署もピリピリしている。 
 梶田警部補は、こんなときに面倒な事件をおこすなよと呟きながら、防犯カメラで犯人はすぐに割り出され、捕まるだろうとも思っていた。
 新聞社には犯行声明が届いていた。オリンピック開会式当日に、そこら中にトラックに毒ガスをまきちらすというものだった。


 ~『……いま入ったニュースです』
 キャスターの表情がこわばっている。原稿を受け取り、さっと読み下してカメラに向かう。
『青酸ガス事件の犯人を名乗る人物が、インターネットの動画サイトに、犯行声明を投稿しました。専門家は、この動画が事件の犯人によって作成された可能性があるとしています』
 予想外のことが起きそうな気がした。梶田は手を叩き、室内の注目を集めた。
「みんな、テレビを見てくれ」
 リモコンで、テレビの音量を最大まで上げる。室内にいた総合対策本部の要員らが、何ごとかと集まってくる。
 画面に映ったのは、黒い影のような人物だった。たっぷりした黒い覆面をかぶっている。スマホのカメラで撮影したような動画だが、解像度は悪くない。
『青酸ガスを撒くことが目的ではない。それは、先に言っておく』
 〈影〉の声は、電気的に歪んだ聞き取りにくい音声に変換されていた。念入りなことに、動画にはテロップもついている。
――少し説りがあるな。
 梶田は〈影〉の声に耳を澄ます。九割以上の確率で、男性だ。
『TOKYOに告ぐ』
 テロップに流れる文字に、目を奪われた。
『これから、TOKYOは孤島になる。心ゆくまで楽しめ』 (福田和代『東京ホロウアウト』東京創元社) ~


 孤島になるとはどういうことか。
 宅配トラックの青酸ガスが仕掛けられたのは2件。幹線道路でトラックが横転する事故、高速道路のトンネルが車両火災で封鎖される、東北本線が不通になる、首都高で事故が起こる……。
 おりしも台風が首都圏を直撃するなか、停泊していた貨物船が流されて東京ゲイトブリッジにぶつかり通行止めになる。
 コンビニにいってもおにぎりの棚に何もない、最初はその程度だった。しかし各地からの物資が同時に遮断されると、様々なものが、とくに食料品が品薄になる。
 それを写真にとってtwitterにあげる者がいる。あっという間に拡散され、人々はスーパーやコンビニにおしかけ、食料品を根こそぎ買い占めていく。
 「大丈夫です、在庫は十分にありますから、買いだめしないでいください!」都知事が放送でよびかけたときは、遅かった。
 スーパーにおしかけて店員を怒鳴りつける客、途方にくれ、頭をさげるばかりのコンビニ店員。
 あちこちに電話をかけ頭をさげてなんとか物資が入荷できないかと奔走するマネージャー。
 我々が遭遇している現実と同じ状況が描かれる。
 都市の生活は、こんなにもろいものだったのかと、梶田は思う。


 ~ スーパーやコンビニの棚に、欲しい商品がいつでも必要なだけ並んでいるのは、けっして「当たり前」ではない。多くの人々が努力しているおかげなのだ。
 考えてみればそれこそ当たり前なのに、なぜかふだんは忘れられがちなその事実に、もういちど目を向けて、感謝の念を抱くことができて良かったと、思うこともできる。
 こうして見れば、東京の巨大な胃袋が呑み込むものは、広く全国各地から届けられる。
 この季節なら北海道から届くはずだった根菜類、牛乳の一部が、貨物列車の線路が被害を受けたために、届いていない。
 東北や九州からの魚介類。関西、九州、山梨や長野からの野菜類。ふだん、食卓に載ったサラダを見て、これは長野のレタス、岡山のトマト、茨城のキュウリ、などと考えることはない。だが、自分たちは今まで、はるばる九州からやってきたダイコンを、おでんにしていたかもしれないのだ。
 そしてもちろん、パックに小分けされ、ビニールに包まれて販売される肉や魚、野菜などの生鮮食品だけが「食品」ではない。工場で加工される缶詰、干物、弁当、レトルト食品、冷凍食品。あらゆる調理の手間を加え、賞味期限を延ばす工夫をし、人間はもりもりと貪欲に食べる。
 ――よくこんな、凄まじいことを毎日やっているな。
 スーパーの店頭に立っても気づかなかったが、こうして全体を俯瞰してみると、その複雑さに驚嘆する。経済活動という、人間の欲望がこの緻密なシステムを成立させているのだとしても、それを日々、地道に支えている人々は尊敬に値する。
 あらためて梶田はため息をつき、その一翼を担っている兄を思った。正直、あの頭のいい兄が、どうしてトラックの運転手になったのかと、不思議に感じていた。だが、これがどれほど現代人の生活に必要な仕事か分かると、兄の選択に頭が下がる。
(働くということは、社会での自分の役割を選び取るということなんだ)
 以前、何かの折にふと、兄から聞いた言葉だった。ほとんど交流がないのに、それだけ妙に心の隅に残っていた。 ~


 梶田の実の兄にあたる世良が、この物語の主人公だ。
 長距離トラックの運転手である世良は、事件の影響を直接受ける。
 そして、自分の仕事仲間が犯人グループの一員ともつながっていた。
 それにしても犯人の狙いは何なのか。
 こうして東京を兵糧攻めにする目的は何か。
 それも読み進めるうちに背景が明らかになっていくのだが、これって本当に悪いのは当事者なのかとの思いが生まれてくるのだ。
 各地のいくつもの事件がつながってきて、それは「テロ」とよばれるようになる。
 「テロ」というと絶対悪のイメージになるが、そうさせずにはいられないほど、犯人を追い込んだ何かがあることもわかってくる。

 現代の都市生活がいかに多くの人に支えられているか、しかし、それが当然であるかのように感じる都会の人々の姿。
 本当に起こってもおかしくない事件だ。
 選手村の食糧さえもつきかける状況においこまれ、事件は収束できるのか。
 それを救うのは、トラック運転手たちの矜持と、地に足のついたネットワークだ。
 ノンストップエンターテインメントとして一気読みの作品だったが、テレワークなどとは無縁の人々でこの世は成り立っていることを忘れてはいけないとしみじみ感じさせられた。
コメント
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