セブンイレブンで週刊文春を買って、駐車場で大津の事件と橋下総理の記事を読む。
予想通り、いやあな気分になった。
ただ、大津の事件については、遠い場所でおこった、よその人がかかわったことと突き放すわけにはいかないので、何かを言うのがむずかしい。
自分だったら何かできただろうかと考えてしまった先生方は多いのではないか。
その感覚のない方は、現場教師ではなく評論家であり、尾木先生や水谷先生はやはり評論家なのかなと思った。野田総理でさえ、教育行政の最終的なトップだということもできるのだから、「いじめは卑劣」というメッセージの前に、まずお詫びではないかと思ってしまう。
橋本さんの件は(あ、最初総理って書いてしまった、まいっか)、この女性の方に対する違和感が強く、こんなことを普通言わないよね。ましてホステスとして働いていた(いる?)方が、顧客との最高級の秘密情報をこんなふうに外に出すことに、法律的問題はないのだろうか。接客に携わる人の道義からはありえないし、どの職業に置き換えても同じだろう。読んだかぎりこの女性が義憤公憤で話しているとは思えなかった。だとしたら民主党、自民党どちらかの力がより強く働いた記事なのだろう。どうでもいいけど。「政治家として大きな失点ですね」とかうれしそうに語るであろう評論家風の方々の顔をイメージしたらはきそうになってしまった。なんてセンシティブなおれ。
登校して、午前は講習。午後はわたなべ先生に合奏をお願いして、会議やら保護者会の準備をする。
帳簿の監査に向けて、学年で学籍簿のチェックをしたが、じゃあこういう手順でいきましょうかと一声かけると、すっと動き始める。つい「代わり映えのしないメンバーでやってるよね」とつぶやくと、「誰がどういう人かわかってていいじゃないですか」と言われる。たしかに。ここ数年は公立学校ではありえないほど同じメンバーでローテーションしている。今も、あるクラスだけが落ち着いてなくて、担任がストレスのかたまりになっている状態にみんな気付いてて、でも自分の持ち分やキャラは自覚しているから、それに応じてやるべきことができればすぐに動くよという気持ちで見守っている状態だ。職人さんの集まりのように思えてきた。ありがたい集団だと思う。
夜は、バンドレッスン。残された時間のなかで何をどうつめていけばいいかを教えていただいたので、あとはやるだけだ。
例年より早く夏期講習が始まったので、けっこうタイトなスケジュールになってる。やるしかないけど。
午前中4コマ講習して、午後の練習では1年生メンバーの方をみた。
楽器をもって三ヶ月。この時期の上達ぶりは目を見張るものがある。もちろんコンクールではいつも通り酷評されるだろう。音程をあわせようとか、楽器が鳴ってないとか。なんで出てくるの? というニュアンスを感じた講評をいただいた記憶もあるけど、ぜんぜんへいちゃらさ。むしろふざけんなという感じ。こういう演奏の方が泣けるメンタルでやってるからこそ、学校の先生をやってられるのだと思う。
夕方かなり疲労していることに気付いたので、一服の涼を得るしかないと思い、南古谷ウニクスで「崖っぷちの男」を観た。
いやあ面白かった。つまんなくて眠りに落ちるならそれもむしろよしぐらいの気持ちで出かけたが、はらはらドキドキの(こんな表現しかできないのか … )100分で、最後には映画的なカタルシスを存分にいただいた。
名前も知らない役者さんばかりだったのもよかったかもしれない。
もちろんあちらの俳優さんで名前がわかる方はほんのひとにぎりだけど、そういうビッグネームを使いました的作品には、あまりにお手軽感を感じることも最近はあったので。「幸せの教室」とか、その典型だった。
主人公はもと警察官。警護を担当した宝石商からダイヤを奪った罪に問われ服役している。
主人公のもとに、父親が危篤だというう知らせが届けられる。その後、もと同僚の刑事のはからいで父親の葬儀に参列することができた。なんとそこで彼は弟とケンカし、その騒ぎの隙をついて刑務官の拳銃を奪い、脱獄に成功する。
次のシーンでは、逃げ切った主人公がルーズベルトホテルの21階から外に出て、街をゆく人々の注目を集める。
と同時に、そのすぐ前のビルで、弟とその恋人がある計画にとりかかりはじめる。
二つのビルの様子が交互に描かれながら、なぜ主人公が飛び降り自殺を装わねばならなかったのかが明らかになっていく。
権力によって人は簡単に犯罪者にされてしまうことを知っているわれわれは、だんだんと主人公に感情移入し、それを救う家族の力に快哉を叫ぶことになる。
アメリカ映画を観て思うのだが、ひょっとしたらアメリカという社会は、家族の結びつきがいまの日本よりよほど強いのではないだろうか。
そう言えばキップを買うときに、となりで「ヘルタースケルター」を買ってた方がいて、「ほぼ満席ですので … 」とか言われているのを耳にする。そんなに入ってるんだ。レディースデーとはいえ、すごいな。きっと一人で入っていったら、何このすけべおやじって思われそうだから、もっと落ち着いてから観ることにしようと思った。
答案返却のあと、楽器を積み込んで県営球場へ。
一試合目は2・3年生で、二試合目は1・2年生中心で出かけたが、はじめて全学年で会場に乗り込む。
全国にその名をとどろかす共栄高校吹奏楽部さんに、気持ちだけでも負けないようにと意気込んで出かけたら、来てねぇし。
それ以上に気がかりだったのは暑さだが、試合開始の頃から少し雲が増え、風も吹いたので、思っていたほどではなかった。
だから、もう少し長く応援してても大丈夫だったのだけど … 。
残念。
最終的な点差ほど力の差があるとも見えなかったが、どう見ても普段できることをしてなかったのは本校の方だった。
たしかに一昨年の高梨くんのような絶対エースはいない。昨年のように身体能力の高い選手がうようよしているチームともちがう。でもまとまっている感じはしていた。みんなでくらいついていけば接戦になるのでないかと期待していたが、気負いもあったのだろうか、のびのびと本領を発揮する向こうさんに比べると、かたいところがあったように思える。
なんてね。外野があれこれ言うことではないか。
考えてみると我が部も、圧倒的な個人技をもつ子はいないし、55人編成の部を40人強でたたかおうとしているのだから、大事なのはまとまりであり、積み重ねたことを本番で発揮できる気持ちづくりだろう。
まずは春日部共栄さんと同じ土俵にあがれるように、残り少ない時間を使っていこう。
渋滞の帰り道、川越のある学校さんを訪問している音楽座の方と連絡をとる。
時間があうようならお会いしませんかとのありがたい言葉をかけていただいてたのだが、ちょっと無理かなと思って電話したら、待ってますと言われる。
学校にもどって、片づけもろもろをなかじま先生にお願いし、川越駅に向かい、秋の公演の件などをうかがった。
お芝居について、出ている人、作っている人と直接会話できるなんて、なんと素晴らしいことか。長生きしてるといいこともあると思う。
いろんなお芝居があり、カーテンコールのありさまも劇団それぞれだ。
芥川賞系のお芝居だと、カーテンコールのないこともあったし、なんか笑顔も見せずとりあえず一回だけならんでみましたというのもあった。
そんなにかっこつけなくてもいいのにと思ってしまう。
すべてのシーンが終わって、全力投球のあとの開放感あふれる役者さんの顔がならんだのを見て、お客さんはさらに得をした気分になるものだ。
クラシックのコンサートのアンコールも同じだ。
そこまで感動してなくても、いちおう礼儀で拍手し続けることが正直ないわけではない。
そういうときにかぎって、もったいぶってなかなかアンコール曲に入らない、もしくは演奏しない。
今日はよかったなと思える日は、アンコールへの入り方もほどよい。
人に何かを伝えるという仕事は、その演目の間だけではなく、その前後も、もっといえばすべての時間にかかわってくる。
自己満足でおわるか、何かを伝えうるかは、そこが分岐点かもしれない。
全身天然表現者の北村さんと話しながら、音楽座さんのカーテンコールを思い出した。
もったいぶらずに何回も並んでくれて、客席に手をふって、さらにダッシュでロビーに出てお見送りだ。
伝えたい思いの強さは、カーテンコールにも、こうして川越に来てアツく語ってくれる言葉からも感じる。
こういう方々と部員とのふれあいをセッティングしてあげられるなら、顧問として幸甚これに過ぎたるはない(またぁ、すぐ難しい言い方しちゃって)。
1学年だより「勉強本(1)」
その昔、受験勉強は精神修養だった。
若者が、刻苦して励み、全身全霊を傾けて取り組むべき課題であった。
その結果として合格した高校や大学には、それまでの勉強の延長上としての「学問」が存在する。 受験勉強で身につけた「学力」を用いて様々な文献を読み解き、自分の専門分野の「学問」の道に進んでいく。
受験勉強も、学問と一続きだから、神聖にして侵すべからざるものであることは言うまでもない。
効率よく勉強するにはどうしたらいいか、少ない努力、時間、費用でよい結果を手にいれるにはどのようにすべきか、などと発想する若者はいなかった … というのは、もちろん建前だ。
昔の若者たちも、手っ取り早く勉強を終わらせるにはどうしたらいいか腐心していた。
しかし、建前は建前として厳然と存在したので、いちおう「四当五落(四時間睡眠なら合格する、五時間寝ているようでは受からないという意味)」と書いたハチマキを巻いてがんばったそぶりをするのが、正しい受験生のあり方だった。
そういう受験状況に風穴を開けたのが、和田秀樹氏である。
現在も、受験業界で絶大な地位を誇る和田氏は、1980年代後半『受験は要領』を出版する。
勉強には、効率のよいやり方がある、その方法に則ることで、才能の有無に関係なく東大にもたやすく合格すると述べるこの本はベストセラーになった。
とくに「数学は暗記だ」という方法論は、世間に衝撃をあたえたものだ。
「神聖」なはずの勉強が、「ハウツー」の対象になったのだ。
ときに日本がバブル景気に踊らされ始めた時代である。
効率よく勉強した結果、難関大学に入り有名企業に就職できれば、そうでない場合とを比べて、生涯賃金が何億円もかわってくる。
そう考えると、毎日1時間よけいに勉強することは、時給何千円のアルバイトをしているのと同じだとも述べた。
勉強はますます「神聖」なる領域から遠のいていく。
もちろん、そういう一面だけで『受験は要領』を捉えられることは、和田氏の本意ではなかった。
たかが受験勉強で、青春の一時期をむだに暗いものにしなくていいと氏は考えていた。
勉強ができないのはたんに方法論を知らないだけであり、人間的に卑下する必要などまったくないという励ましもこめられていた。
やみくもに努力するのではなく、人生の貴重な時間の中での受験を見直してみようとするものだったのだ。
ベースにあるそういう思想は、のちに出版される「新版」では次のように書かれている。
~ 受験勉強の環境を整えるというのは、アイドルのポスターをはがして、参考書をそろえることではない。いままでの生活で自分を縛っていた時間から自由になり、「自分」を最大限に活かす、
“自分だけの時間割”を手に入れることだ。(和田秀樹『新・受験は要領』KKロングセラーズ) ~
しかし一般には、この本は単なる「ハウツー本」として扱われた。
1学年だより「勉強本(2)」
勉強本は、その後ぞくぞくと出版される。
和田氏の独擅場だった「勉強法の本」市場にも、新規参入する著者が増えてくる。
福井一成、柴田孝之、黒川康正、有賀悠 … 。
和田氏が提起した勉強法をベースにして、心理学や脳科学の成果を盛り込みながら、より精密な本が出版されていった。
たとえば有賀悠氏の『「図解」超合格術』の目次には、「カコモンノートのつくりかた」「記憶増大のテクニック」「生活革命が学習密度をあげる」「やる気の作り方」「写真を活用せよ」「手帳の活用法」 … といった項目がならぶ。
当時の勉強本としては、最もよくまとめられていて、その頃の川東生にもずいぶん薦めた記憶がある。
「志望大学の正門の前でガッツポーズする写真を撮って、部屋にはろう」とか、「エビングハウスの忘却曲線に基づいた復習のタイミング」の話とか、当時読んでなるほどと思った人は多い。
「勉強するときにキッチンタイマーをかけよう」とか、「日付スタンプを買って問題集や参考書に押していこう」も、この本が嚆矢ではなかったか。
今はすでに絶版だが、amazonで検索してみると、中古本に1万円の値がつけられている。
同じ著者の『スーパーエリートの受験術』にいたっては50000円だ。
買ってみる? 買う必要はありません。
なぜなら、この二冊を越える本はすでに山ほど出版されているから。
勉強法ブームとよばれるほど、勉強方法の本が出版される時期が一時期あり、現在も一定の量は出版され続けている。
さすがに本を書き著すような方々は、過去の名著には目を通されている。
そのうえで、自分なりに消化し、自分の分野で成功をおさめられ、その修正された勉強法をおしげもなく本に紹介している。
その著者がその本を書くまでに、どれだけの時間と労力がかけられていることだろう。
いったい何十万円、何百万円分の本を読まれたことだろう。
それを思うと、1000円や1500円で買える本はばかみたいに安い。
「これ!」という一つの方法がつかめるのなら、実は50000円支払っても本当は安いのだ。
勉強の「方法」がたった一つでも身に付くなら、その価値はお金に換算できない。
せっかくの夏休みだから、そういう本も手にとってみたらどうだろう。
食べるものがなくて飢え死にしそうな人がいたとする。
親切な君は、そういう人を見て、つい持っていたコンビニ弁当を差し出すだろう。
ただし十数時間後、その人はまた同じように飢え死にしそうな状態になっている。
本当の親切とは何か。食べ物をあげることではなく、食べ物を手に入れられる「方法」を教えてあげることだ。何を言いたいか理解してもらえるだろうか。
学年だより「イナーシャ」
「イナーシャ( inertia )」という英語がある
日本語訳は「慣性」で、物理の時間に習ったとおりの意味だ。
物理では、物質一般の性質を表す言葉だが、イナーシャと言い換えられていろんな分野で用いられている。
止まっているものは止まり続けよう、動いているものは動き続けようとする特性。
人間の行動様式にも、イナーシャがはたらくことは、我が身をふりかえってみれば容易に想像できると思う。
なかなか勉強をはじめられないときというのはあるものだが、大変なのはやりはじめる瞬間だ。
たとえばテレビを見ている、ネットサーフィンをしている、ゲームをしている … 。
それをやめて次の行動にうつるときに、負荷がかかる。
イナーシャの壁があるのだ。
逆にいうと、その瞬間のイナーシャを克服することが一番大事だとも言える。
やり始めることができれば、そのこと自体によって、やる気はわいてくるのが人間の脳だから。
どうすればいいか。
他力にたよるのだ。他律といってもいい。
自主・自立・自律というたいへん魅力的なことばはあるが、なかなか人間は「自ら」やるのは難しい。
オリンピックに出場するほどのアスリートでも、純粋に自分の力だけで、ハードなトレーニングに取り組めるものではない。
オリンピックに出るような選手達は、気が遠くなるほどの練習をする。
たとえば水泳の選手は毎日何千メートルも泳ぐ。
自らの「やる気」とか「気合い」とか、まして「自主性」でやれるような練習量ではない。
コーチがつくってくれた練習計画に基づき、コーチの指導をひたすら信じて取り組んでいくのだ。
「自然にやらされている」といってもよい。
もちろん、そういう状態に身を置くことを選んだのは選手自身だが、いったんその流れに入ってしまったら、あれこれ考える暇もなくやるしかなくなる。
やるしかないから、当然結果もともなってくる。
逆に、そういう自分に疑問を持ち、そこからはずれてしまった選手は、オリンピックに出られないということになる。
やるしかない空間は、それ自体がシステムになる。
もっとも身近なシステムが学校だ。
スクールバスに乗って学校にくる。教室にいると、先生が向こうからやってきてくれる。
チャイムがなる。プリントが配られる。周りをみたら、みんなが解き始めている。
やる気がなくても、やらざるを得ない。気がつくとイナーシャの壁はこえている。
それが学校だ。
同僚の結婚式。雨模様が心配だったが、朝ぽつっときただけで、だんだん夏の空になっていく。
日頃の行いがよいせいだろう。新郎からスピーチを頼まれていたので、数日前からどきどきしていた。
司会や余興はなんども経験したが、純粋なスピーチははじめてである。
もちろん、どういうことを言えばいいかはわかっている。
気をつけるべきことも知っている。
やたら長くならないこと。会社の紹介をむだに長くしてみたり、自分の自慢話をはさんでみたり、どこかに書いてあるようなお説教(結婚には三つの大事な袋があるといいます … 的な)にしないこと。
でも、みんなそういうのわかっているはずなのに、いざ自分が話す時には、それを忘れてしまう方のなんと多いことか。
一説には、それはいいとも聞いたこともある。
新婦側の親からすれば、娘が人手に渡ってしまうのがおしい、一分でも長く手元においておきたい、つまらないスピーチでもいいから、えんえん続いて披露宴が終わらなければいい … 。
一理あるとは思う。
でも、昨今のスケジュールのぴちっと決まったパーティーで、一人がえんえん話すことは許されないだろう。
スピーチの極意は、定型をふまえつつも、どれだけ印象的な具体を盛り込めるか。
たとえば「新郎は真面目です」と説明しない。そう言わなくてもそれが伝わるエピソードを語ると、いいスピーチになる。
卒業式の送辞や答辞も同じだし、自己推薦書、志望理由書も骨格は同じだ。
ふうっ。理屈は言えるんだけどなあ。日頃エラそうに添削などしている身なのだから、自分ができないのはおかしいだろ、がんばれオレといいながら、原稿を書いて、車のなかでボイスレコーダに録音して確認すること数回。そして、本番ではそういう練習などしてなかったように話そうとしてみた。
昔読んだ、原田マハさんの『本日はお日柄もよく』も読み直した。
結婚式で、つまらないスピーチの最中に居眠りしてスープに顔をつっこみひんしゅくをかった主人公が、それが縁でスピーチライターなる職業の女性と出会い、自身もその道を歩んでいく物語りだ。
おもしろい。途中にいくつも出てくるスピーチが実に感動的だ。
結婚式のスピーチでは「ただいまご紹介にあずかりました~」などとはじめない、空気がゆるむから。でも「本日はお日柄もよく」という定型句は実は大事 … というように、主人公の師匠が説明してたので、それにも従ってみた。
途中、話を聞いてくださっている会場の方の顔を見る余裕はあった。でも自覚はしているものの、最初のスピーチにしてはこれは早口だよなとおもいながら話していた。
終わって、席にもどったら、あんまり長くなくてよかったですよ、と隣席の同僚が声をかけてくれた。
よかった。最初にやることやってしまうと、あとはのんびり飲み食いできるのがいいね。
オードブルにオマールエビ、フォアグラがでて、甘鯛のポワレ、シャーベットをはさんで和牛のステーキ。
盆と正月とクリスマスとお誕生日がいっぺんにきたようだ。
結婚式でもなければ絶対食べないメニューだけど、世の中には、たまに外食しようかといって、こういうコースを食べに行く人もいるんだよなあ。人の一生はどこで道を分けるのだろう。
結婚式場で供される料理も、実に洗練されてきたと思う。
この会場のせいもあるだろうが、おそらくどこの式場に行っても、一昔前とは比べものにならない料理になってるんじゃないだろうか。
一方で、ゴンドラで登場するわ、お色直し4回するわ的な披露宴は減っているはずだ。
あと最後にご両親へのプレゼントが花束じゃなくて熊のぬいぐるみだった。
新郎新婦が生まれたときの重さのぬいぐるみをつくって渡すという。なんかいい。
日本はいま、若い人の人口が減り、結婚する比率も減り、よって結婚式、パーティーの総量が相当少なくなっているけど、その結果として一つ一つのパーティーの中身は洗練されていくのだろう。
帰りがけにとつぜん味噌ラーメンが食べたくなったけど、ぐっと堪えて学校にもどり、夏期講習のテキストをつくる。
お芝居にも、芥川賞系と直木賞系があると思う。つまり純文学系とエンターテインメント系というように。
お芝居の世界に、こういう大雑把な分け方を表す言葉はあるのかな。
いざ分けようとすると小説の世界より混沌とするような気はするが、なんとなく自分のなかで二方向あって、やはり楽しみたいのでお芝居といえばエンタメ系にでかける。行って観て楽しんで時には泣けてという魂の浄化が経験できるので。
ここ数年、キャラメルボックス、今年解散するセレソンデラックス、劇団子、だっしゅなど、楽しいお芝居を観ることができた。定演にそれをいかすためという仕事の一貫ででかけているのです。
あまり行かないまじめ系のお芝居で、唯一(かな)心うごかされたのは、「ままごと」さんである。
柴幸男さんという、たぶん演劇の歴史に名を残すであろう若い書き手の方の作品を演じるための劇団。
「わが星」「あゆみ」。何であんなに感じ入ってしまったのだろう。
ストーリーがおもしろいわけでもない。ていうかむしろよくわからない。
役者さんの演技が上手すぎるという驚きでもない。演技というより身体表現であり、でもたぶん一番に大切にされているのは言葉のはずだ。
大道具や大仕掛けをつかう商業演劇とは真逆の環境でそれは演じられていた。
観客が四方が取り囲むステージ(というか床)に役者さんが表れる。
「わが星」では照明によってつくられた光の枠、「あゆみ」では役者さんがチョークで地面に書いた線。
ほかに何もない。何もないが、一つ一つのシーンは伝わってくる。
セレソンデラックスさんの、舞台の隅々の誰も気付かないような小物にまでこだわった舞台とほんとうに正反対だ。
セレソンさんが具体の極致だとすれば、ままごとさんは抽象の極致。
台詞のすべてが、一定のリズムの制約のもとに発せられる点も、抽象の一つの姿なのかもしれない。
そして同じシーンが形をかえて何度も描かれる。
ある時間に、ある人物が、ある行いをした。
もう一度、ある時間に、ある人物が、ある行いをする。
しかし、二度目は、台詞が変わる、動きが変わる。
観ていると、同じ時間帯に、同じ人物による、別の世界が存在しているような気分になってくる。
我が身におきかえたとき、お芝居を観ている自分とは別の自分が、同時に存在して何かほかのことをしてるのではないか、ほんとうの自分はそっちなのではないかという不安感さえ抱く。
具体の極致の先に、かけがえのない一つの人生を描くのがセレソンさんだとしたら、抽象の究極として人間存在の普遍を問いかけるのが柴幸男さんなのではないか。
なんか、演劇評論のパロディみたいな文になってしまった。
自分でも意味わかんないかも。
でも、そんなふうなことを、三鷹芸術ホールで、柴さんの新作「朝がくる」を観て思った。
一人芝居だったので、役者さんの台詞のユニゾンという今までのお芝居で一番好きなのがなかったのが残念。
一人しかなくても、役者さんの言葉はリズムを刻む。
この地球に生きる人間は、地球のリズムと別の時間を生きることはできない。
人間の体内時計は24時間とは少しずれてという話を聞いたことがあるが、でも朝がくれば目を覚まし、夜になれば眠りにつく。
発せられる言葉も、地球のリズムと別種の論理で存在することはできない。
A県K町のある日の朝、何時何分というある一瞬を過ごす、ある一人の女性という具体が、演じる役者さんの類い希な身体性によって、普遍に昇華されていく舞台だった。
学年だより「無意識の伝染」
オリンピックメンバーに選出された澤穂希選手が「自分の集大成としてメダルをとりたい」と抱負を語っていたが、「NEWS ZERO」で櫻井くんのインタビューに答える澤選手の姿も印象に残った。
「四回目で、もう慣れてませんか?」と尋ねられ「ないない。そんなことないですよ。やはりオリンピックはすごい所です」「でも、きついですよ~。フィジカル(トレーニング)とかは。もうこの年ですから。」と本音を語る澤選手の話を聞きながら、なるほどあれほどの選手でも、きついことはきついのかと、あたりまえだけど納得した。
人は弱い生き物である。
何かをやろうと心に決める。目標をもつ。その実現に向けて、あれこれと取り組んでいく。
しかし、途中でくじけずにやり続けていくことは難しい。
「本当にやる気があるなら、どんなつらいことでも乗り切れるはずだ」という言葉は一面真理ではあるが、そうそう単純なものではない。
たとえどんなに好きなことであっても、過程においては辛いことも多い。
目標が大きければ大きいほど、ときには逃げたくなるほどの苦しさがあるのは当然だ。
そんな時に、目標達成のカギをにぎるのが、仲間の存在だ。
~ 夢を叶えるのに大切なのは仲間の選択、といわれる。
人間は弱い生き物。ひとりでは何もできないし、すぐに“言い訳”をしてしまうし、すぐに「折れてしまう」。そして人にも影響されやすい。
さらに、仲間といると知らないうちに起こっているのが“無意識の伝染”。
だからこそ、自分を成長させたいなら、「誰と一緒に過ごすか」の見極めが大切。
自分が誰といたら、成長できるか? 輝けるのか? 決めるのはあなた自身。
どんな水槽でどんな魚の種類と一緒に泳いでいたいのか。
その水槽の選択があなたという人間を創っていく。
最初はひとりだけ違う泳ぎ方をしていたはずなのに … いつのまにか知らないうちに、ほかの魚と同じ泳ぎになってしまう。
まさに、水槽が変わると“無意識の伝染”で、いつのまにか自分の中身も変わってしまったりするもの。だから、いい“無意識の伝染”を意識してほしい。(鈴木浩一郎『折れないハートをつくつ7つの秘訣』オータパブリケイションズ) ~
人はどんな環境におかれるかによって、そのふるまい方は変わる。
その人がどうふるまうかで、環境も変わる。
類い希な才能を有するアスリートたちでさえ、チームで練習することによって、くじけそうになる心に打ち勝って自分を鍛えていく。
教室でも、部活のときも、ともにいる仲間を大事にしていくことが、目標達成をなしとげる一番の近道だ。
「中二病」という言葉がある。
年配の方々はご存じないかもしれないので、かるく説明すると、思春期でもないのに、思春期時代のような自意識過剰さによるイタ~い感じの言動、ふるまいをしてしまう状態を言う(はず)。
いい年して、観念的な悩みにとりつかれたり、どうでもいいことにコンプレックスを感じたり、無機質なものにエロを感じたり、世界の中心は実は自分だと思ってみたり、世界中の誰にも相手にしてもらってないと思ってみたり … 。
中二のころはそれが普通だから、「病」というにはあたらないはずだが、実際には、渦中の中学生のふるまいを指してそういうことも多いみたいだ。そうか、全員がそうなっているわけではないから、「病」認定していいのかな。
辻村深月『オーダーメイド殺人クラブ』の、主人公の女子中学生アンは、まさに中二の渦中にいる。
~ まだ自分が何もしていないことが、もどかしかった。
奇才って呼ばれたりするような絵を描いたわけじゃないし、小説や詩が書けるわけじゃないし、勉強がすっごくできるわけじゃない。だけど、本当にわかってくれる大人は私の頭の中身を全部見透かして、私が人と違うことを見抜いてくれてもいいはずだ。これから、何かを(それが何かはまだわからないけど)成し遂げる私。人と違う、私。 ~
そんな特別な自分であるはずなのに、学校では突然友人からハブかれたり、あっけなくもとどおりになったりする不安定な人間関係を生きている。運動部でそこそこ活躍し、彼氏がいる時期もあり「リア充」の日々を生きているように傍目には見えながら、ちょっとしたきっかけでいじめられる側になってしまう危うさ。
親は、自分の気持ちなどみじんもわかってくれない、ていうかウザい。教師などもってのほかだ。
生きづらい毎日を過ごしながら、特別な自分にいつしかなれることを夢想する。
町を歩いていたらスカウトされてモデルになれるんじゃないかとか、これから売り出そうとするバンドメンバーと恋仲になるとか。
~ だけど、そんな大人が現れない以上、特別になるためには命でも投下するしかないのだ。それが空っぽな、まだ何も成していない私たちにできる今の時点の精一杯。 ~
こういうアンが、女子中学生二人が心中したニュースを聞いて最初に思ったのは、「もったいない」だった。命がもったいないと思ったのではなく、もっと劇的に大きなニュースにすることも可能だったはずだと思いから。
~ 遺書も残さず、主張もなく、演出もせず死んでしまうなんて無駄死にだ。 ~
自分だったら … と夢想する。せっかく自分の命を使うのだから、普通の中学生とは違う「特別な存在」
にならなければうそだ。
そうだ、「少年A」の被害者になろう。さいわいクラスには適役がいる。
「昆虫系」と名付けている男子のなかでも独特の存在感をもつ徳川に、「自分を殺して」と打ち明けてみよう … 。
こうして、アンと徳川は、来るべきその日に向かって秘密の準備をはじめる。
「悲劇の記憶」と名付けたノートに、綿密な準備の記録や思いをつづっていくアン。
ノートを埋めていく作業は、日常の暮らしの閉塞感を忘れてさせてくれる。
二人は「悲劇」に向かって一歩ずつ進んでいく。
結末は書かない。決して後味悪くはならない。
大人なら、誰もが通ってきた道であることを思い出し、その世界に入り込みながら、そこから時間をかけて中二病を脱してきた自分を感じることができるだろう。
この年になっても時折発症するけど、発症したことを自覚でき、客観化できるから、治癒できる。
作品に登場する親や教師は、主人公たち中学生から見れば、ほんとうに無神経で鈍感な唾棄すべき存在かもしれない。
大人の立場になれば、あえてそうやって鈍感に子供を見守っていることが大事だとも言えるかも知れない。
山本周五郎賞の選考会で、原田マハさん『楽園のカンヴァス』と同じくらい評価が高かった作品と知って読んでみた。
原田さんとはまた別種の、才気溢れる文章を読めてよかった。
直木賞の方は、きっと辻村さんの『鍵のない夢を見る』が受賞するだろう。
映画がはじまる。愛と誠とが最初に出会う幼少時代のエピソードがアニメーションで描かれる。
場面が変わって1970年ころの東京の一画。不良達と対峙する太賀誠。
一触即発となったところで、誠が歌い出す。
「やめろと言われても 今では遅すぎた 激しい恋の風にー 巻き込まれたら最後さ… 」。
西城秀樹の「激しい恋」だ。おお、そういえば初代の誠は西城秀樹だった、と思い出せるぐらいの年齢の方じゃないと、この作品はつらいのではないか。武井咲ちゃんの歌う「あの素晴らしい愛をもういちど」をはじめ、「また逢う日まで」「空に太陽があるかぎり」などを登場人物が歌い出す場面はミュージカル仕立てになり、楽曲のもつイメージが、各シーンの時代性をうまく補完する。
ぎゃくに、なんでここで歌い出すの? しかも踊るの? と感じてしまう人にとっては、二時間強がつらい長さになるかもしれない。
主演の妻夫木くんが「万人うけする映画ではありません」と言ったそうだが、まちがいなくそのとおりだろう。
三池監督は「奇才」と称される。ふつう奇才とか異才とか言う場合、その才能をみとめつつも、よくわかんない部分もあるよね、紙一重だよね的扱いであることが多い。
「ヤッターマン」「ゼブラーマン」「十三人の刺客」。観た作品を思い出せば、たしかに奇才というしかない。ただ … 自分にはあわないかな、いやむしろキラいかな的な、ほぼ同世代の監督さんだ。
でも「愛と誠」は、楽しかった。
宅間孝行氏の脚本、小林武史氏の音楽、パパイヤ鈴木さんの振り付け、どれも一級品。安藤サクラさんの芝居もすごい。時代の才能が大集合しているなかで、妻夫木くん自身は実はかげうすいけど、普段通りの存在感を表し続ける武井咲ちゃんて、ほんとうはすごい役者さんなのだろうか。ひょっとして一番の奇才は咲ちゃんなのかもしれない。こんど思い切り不良の役とか予想もしてなかった悪い役を演じる彼女を観てみたい。