特殊かつ具体を描きながら、普遍ともいえる人間の姿を描き出すのがすぐれた小説というなら、この作品はまさにそれだと感じる。
そっか、だから「本屋大賞」だったのか。
ここ何年か、誰でも知ってる売れっ子さんが受賞されてて、いまさら本屋大賞あげなくても……と思ったことがあったが、今回は本来の趣旨にあった選考だったのではないかと思うし、そのおかげで手に取って読むことができた。
久しぶりに一気読みした。そして、ひょっとして、みんな生きづらいのかなと思った。
~ 「わたし、ずっと、ここにいたいなあ」
梨花ちゃんはちゃんは何度も変身シーンを繰り返し見ている。からっぽな横顔。
――神様、もうあの家には帰りたくない。
古びてはいても、けっして色褪せない悲しみ。ゆっくりと手足の先まで冷えていく感覚を思い出す。文がそっとわたしの手をにぎってくれた。それだけでわたしは力を得て、反対の手を梨花ちゃんへと伸ばした。ゆるく癖づいた髪に触れると、薄い肩が震えた。
「でもさあ、いつもはお母さん、優しいんだよ」
「うん、そうだね」
髪を撫でていると、梨花ちゃんがふいに布団に顔を伏せた。じっと動かない。声も出さずに泣いている梨花ちゃんの背中を覆うように、わたしは身体を寄せた。そんなわたしの手を文が強くつかんでくれている。
わたしたちは親子ではなく、夫婦でもなく、恋人でもなく、友達というのもなんとなくちがう。わたしたちの間には、言葉にできるようなわかりやすいつながりはなく、なににも守られておらず、それぞれひとりで、けれどそれが互いをとても近く感じさせている。
(凪良ゆう『流浪の月』東京創元社) ~
『流浪の月』の登場人物たちが築く人間関係は、ふつうに考えれば極めて特殊なものだが、読み進めていくうちに、彼女や彼がほんとうに「特殊」なのだろうかと疑問が浮かぶ。
変な、おかしい、まちがった、不適切な……。
更紗(さらさ)と文(ふみ)の関係がおかしいのだとしたら、正しい人間関係とはどのようなものか。
たとえば家族を形成する条件に血縁は重要だが、血のつながってない者でつくる家族はたくさんあるし、法的にも認められている。
そもそも結婚は、血のつながりのない全くの他人同士が、何を血迷ったか死ぬまで一緒にいようなどと約束してしまう、おそろしい行いだ。
19才の青年と、9才の少女が築いた関係を、根源的な「悪」とみなす理論は、実際にはないのではないか。
その二人が成人したあとに出会って、再びともに暮らすことを、倫理的におかしいと言うことは、できないのではないか。
そもそも、家族って何? 親子、夫婦、恋人、友人……。
どんな人間関係も、絶対的なあるべき「かたち」というものはなく、幻想にすぎないのではないか。
ひらがなに 「 」 つけると、鷲田清一先生みたいだけど。
いまコロナ自粛で、家にいるのが逆につらい、息がつまる、という思いを抱いている人もいるだろう。
家の中でこそ、ソーシャルディスタンスをとる方がいい。
物理的に難しいなら、精神的な距離だけでも。
学校でも起こりうる問題だ。
クラスのメンバーは「なかよくしなければならない」、部活動の仲間は「心一つにしなければならない」という考えにしばられて、そうできない自分を責めたり、できない人を見つけて居づらくさせたり。
同じような目標をもって集まる部活動でも、何十人もいたら、あう・あわないがあるのはあたりまえだ。
そこをどうやりくりするのかを学ぶのが学校だし、ありようは多種多様だ。
自分の意見が正解だ、自分の考えが常識だと、疑うことなく思い、自分の「善意」で他人に教え諭そうとする人がいる。
~「わかってます。あなたが悪いんじゃない。あなたは佐伯の被害者だ」
ちがう。そうじゃない。わたしは、あなたたちから自由になりたい。中途半端な理解と優しさで、わたしをがんじがらめにする、あなたたちから自由になりたいのだ。 ~
学校の先生はとくにそうなりがちなことを自戒しないと。
もちろん、心でそう理解しながら、あえて世間の価値観にもとづいて意見するのも仕事のひとつだ。
そっか、だから「本屋大賞」だったのか。
ここ何年か、誰でも知ってる売れっ子さんが受賞されてて、いまさら本屋大賞あげなくても……と思ったことがあったが、今回は本来の趣旨にあった選考だったのではないかと思うし、そのおかげで手に取って読むことができた。
久しぶりに一気読みした。そして、ひょっとして、みんな生きづらいのかなと思った。
~ 「わたし、ずっと、ここにいたいなあ」
梨花ちゃんはちゃんは何度も変身シーンを繰り返し見ている。からっぽな横顔。
――神様、もうあの家には帰りたくない。
古びてはいても、けっして色褪せない悲しみ。ゆっくりと手足の先まで冷えていく感覚を思い出す。文がそっとわたしの手をにぎってくれた。それだけでわたしは力を得て、反対の手を梨花ちゃんへと伸ばした。ゆるく癖づいた髪に触れると、薄い肩が震えた。
「でもさあ、いつもはお母さん、優しいんだよ」
「うん、そうだね」
髪を撫でていると、梨花ちゃんがふいに布団に顔を伏せた。じっと動かない。声も出さずに泣いている梨花ちゃんの背中を覆うように、わたしは身体を寄せた。そんなわたしの手を文が強くつかんでくれている。
わたしたちは親子ではなく、夫婦でもなく、恋人でもなく、友達というのもなんとなくちがう。わたしたちの間には、言葉にできるようなわかりやすいつながりはなく、なににも守られておらず、それぞれひとりで、けれどそれが互いをとても近く感じさせている。
(凪良ゆう『流浪の月』東京創元社) ~
『流浪の月』の登場人物たちが築く人間関係は、ふつうに考えれば極めて特殊なものだが、読み進めていくうちに、彼女や彼がほんとうに「特殊」なのだろうかと疑問が浮かぶ。
変な、おかしい、まちがった、不適切な……。
更紗(さらさ)と文(ふみ)の関係がおかしいのだとしたら、正しい人間関係とはどのようなものか。
たとえば家族を形成する条件に血縁は重要だが、血のつながってない者でつくる家族はたくさんあるし、法的にも認められている。
そもそも結婚は、血のつながりのない全くの他人同士が、何を血迷ったか死ぬまで一緒にいようなどと約束してしまう、おそろしい行いだ。
19才の青年と、9才の少女が築いた関係を、根源的な「悪」とみなす理論は、実際にはないのではないか。
その二人が成人したあとに出会って、再びともに暮らすことを、倫理的におかしいと言うことは、できないのではないか。
そもそも、家族って何? 親子、夫婦、恋人、友人……。
どんな人間関係も、絶対的なあるべき「かたち」というものはなく、幻想にすぎないのではないか。
ひらがなに 「 」 つけると、鷲田清一先生みたいだけど。
いまコロナ自粛で、家にいるのが逆につらい、息がつまる、という思いを抱いている人もいるだろう。
家の中でこそ、ソーシャルディスタンスをとる方がいい。
物理的に難しいなら、精神的な距離だけでも。
学校でも起こりうる問題だ。
クラスのメンバーは「なかよくしなければならない」、部活動の仲間は「心一つにしなければならない」という考えにしばられて、そうできない自分を責めたり、できない人を見つけて居づらくさせたり。
同じような目標をもって集まる部活動でも、何十人もいたら、あう・あわないがあるのはあたりまえだ。
そこをどうやりくりするのかを学ぶのが学校だし、ありようは多種多様だ。
自分の意見が正解だ、自分の考えが常識だと、疑うことなく思い、自分の「善意」で他人に教え諭そうとする人がいる。
~「わかってます。あなたが悪いんじゃない。あなたは佐伯の被害者だ」
ちがう。そうじゃない。わたしは、あなたたちから自由になりたい。中途半端な理解と優しさで、わたしをがんじがらめにする、あなたたちから自由になりたいのだ。 ~
学校の先生はとくにそうなりがちなことを自戒しないと。
もちろん、心でそう理解しながら、あえて世間の価値観にもとづいて意見するのも仕事のひとつだ。