歴史修正主義と云うと、どうしても、日中戦争時の南京虐殺は何十万という犠牲者数の証拠がないから民間人虐殺事件は無かった、従軍慰安婦は軍が無理矢理連れて行ったという証拠がないから従軍という文字を削る、関東大震災時の朝鮮人虐殺は無いから自治体の長として追悼文は送らない、という立場の考え方が一足飛びに思い浮かぶ。
歴史を自虐史観から離れて、新しい教科書を創ろうということも、修正史観の類似というふうに見えてしまう。それを言うと、また攻撃する人たちもいるかもしれないが。それらはひとまず横に置いておいて、―
『ルーズベルトの開戦責任』草思社の文庫版の翻訳者の前書きにでは、― 歴史修正主義史観の本質は、日本やドイツの枢軸国の擁護にあるのではない。ルーズベルトやチャーチルの外交を分析にそこにまちがいがなかったかと疑うことにある。―と翻訳者の渡辺惣樹は云う。
とかくこの圀の翻訳語は難しい。
また「先の大戦で日独の枢軸国がベルサイユ体制を破壊し、世界覇権を求める“極悪”の全体主義国家であり、その野望を叩きのめす外交を進めたルーズベルトやチャーチルが“絶対善”」となり、「ヒトラーや東條英機が“極悪人”となる」というような正統な歴史観にたつ歴史家は、一度不都合な事件や発言に触れると釈明に終始せざる得なくなる、と。こうした歴史観を「釈明史観主義」とフーバーは軽蔑したそうである。
此の圀の翻訳文化という線上での不確かな動揺とか、翻訳された概念の日本語化の難しさを感じないではいられない。
また他方では、「歴史修正主義」というレッテル貼りの戦いにばかりに躍起になって、実際は何が歴史の真実かの議論が広く行われていないことを憂う。
伊勢佐木町の古い映画館が潰れた…。コロナではないとのこと。
(「ニュー・テアトル」2018・6・1閉館)