木戸の野望はいつから始まったか、と考え始めた時に、東條と木戸の共通項が浮かんできた。常に成績主義の参謀幕僚の世界で、二代目軍人としての東條は陸大卒としては恩賜の軍刀組(同期の6位以内)ではなかった。しかし成績10位内に入っていたから当時のドイツ・スイスに武官留学できた。そこで梅津美治郎と永田鉄山と大使館の東郷茂徳と会う。一つの運命的な出会いがあった。
帰国してからの東條は、永田の金魚の糞のように振舞い、いつも永田の陰になって生きてきた。1935年8月の相沢事件で永田軍務局長が隊付きの将校に斬殺される。そして、東條は独り立ちした訳だが、カミソリ東條と言われる所以は『杉山メモ』の大本営・政府連絡会議の記録の中に十分にくみ取れる。しかし、彼は切り返し論法が上手かっただけで、結局中身のない、石原莞爾のような大局観が無い、単なる能吏の言葉でしかなかった。
結論から言えば、彼の主張は「9月6日の御前会議の後に既に軍隊は満州・支那からも続々と南方に向け移動している、もはや戦争はとめられない」と言っているに過ぎない。そして、「支那事変の成果に動揺を与えることなし」と云って、有るか無きかの戦争の成果に手を触れぬな、と言っているだけなのである。この手の軍人の云うセリフに「血で贖った」という言葉が出るが、実は「自らの失敗を隠蔽し、体面を守るため」が本心なのであろう。【次回へ】
【参考文献:参謀本部編『杉山メモ』原書房、赤松貞雄『東条秘書官機密日誌』文芸春秋、ほか】
これって、今に似ていないか。「万博は決まったのだから、既にゼネコンに発注し、次の儲けのためにパー券買ってもらったから絶対止められない」「かつての東京オリンピックと大阪万博の成功例の国民の夢を潰すな」と同じだ。此の圀は戦前と変っていない。
大上段に、脱却するような「戦後レジーム」なんて存在していない。それより、依然として残る「戦前への回帰」の方が問題だと思えるのだが、…。