「皇后を廃し」と言ったのは、不妊の原因が皇后にあるのだと断定したわけではなく、天皇家として、どうしても徳仁親王の子に皇位を継がせたければそうやって子供が出来るかどうかを試すしかあるまいと思ったからです。
令和4年の天皇記者会見の中で
「皇位が連綿と継承される中では,古代の壬申の乱や中世の南北朝の内乱など皇位継承の行方が課題」
と発したように、天皇の頭の中には自ら考えているのか、回りから吹き込まれているのかわからないけれど、「壬申の乱」という言葉が刻まれているような気がします。
実は所属している脚本の会の方と久方ぶりに電話で会話する機会があり、「次はふぶきさんが上演したらいいよ。短い話で」と言われ、「頑張ります」とは言ったものの、全然短いストーリーが出てこないなと思ったんですね。
でも・・・古代物で恋愛要素が入って・・十市皇女を主人公に大友皇子、高市皇子、額田を母に持った姫が1首も歌を残さず伊勢に行く当日にこの世を去った事の理由を舞台化したら面白いのではないかと思いました。
十市皇女・・・大海人皇子と額田王の娘
大友皇子・・・天智天皇と伊賀采女宅子娘の息子
高市皇子・・・大海人皇子と尼子娘との子
飛鳥時代の皇位継承の規則は
同じ母を持つ兄弟の場合、直系相続ではなく兄弟相続になる
天皇になる為には両親共に皇族でなければいけない
という掟がありました。
評判が悪かった天智天皇
天智天皇は中大兄皇子と呼ばれた時代に、皇族である倭姫と結婚しますが、皇子に恵まれませんでした。彼の「乙巳の変」での振舞、白村江の戦の敗北は大いに官僚や国民から不評を買っていました。
乙巳の変の後、自ら皇位を継ぐでもなく母にそれを押し付け、自分は自由な立場を保ちつつ、政権は握ると言うずるいやり方です。
ライバルになりそうな古人大兄皇子、有間皇子を殺しました。
その当時、もしマスコミがいたら批判は斉明天皇にも及んだ事でしょう。
「天皇は中大兄を甘やかして、中臣鎌足のような得体のしれない男を側において、肝心の正妃との間には子供が出来ない。おまけにあろうことか母が同じ間人皇女と密通してそれを許すなんて・・・「百済は国の宝」とか言って、勝つあてのない戦に大金をつぎ込み、増税の嵐。それに呑まれて天皇もあっちこっちで寺を建てる「建築天皇」だ。国民はたまったもんじゃないよ」と。
中大兄と大海人皇子は元は仲のいい兄弟ですが、大海人皇子が額田王を得た時から確執が。
額田は美人でとびきりの歌詠みです。現在で言えば最高のスターです。
頭もよく美人で、彼女の歌には霊力さえあると思う。
彼女がいたら自分の評判もあがるだろうし、戦にも勝てるだろう・・・と思ったかどうか、中大兄は弟から無理やり額田を取り上げ、自分の妻にします。
当時、大海人皇子と額田の間には十市が生まれていたのに。
代わりに中大兄は蘇我氏との間に出来た大伯皇女と鸕野讃良皇女を与えました。
この頃から兄と弟の間に確執が。
そして、大海人皇子は長男高市皇子を得、大伯皇女との間に大津皇子、鸕野讃良皇女との間に草壁皇子を得ます。
天智天皇は焦ったでしょう。
その当時、男子は蘇我氏との間に建皇子がいたけど8歳で早世。長男として得たのは大友皇子のみ。
兄から弟に継承がなされることから、天智天皇即位と同時に大海人皇子は「皇太弟」になります。
平成と令和の天皇は多分この「皇太弟」という言葉が嫌いでしょう。
「皇太弟」=壬申の乱とでも思っているんじゃないでしょうか?
本来、徳仁天皇にもう男子出生の見込みがないわけですから、秋篠宮は「皇太弟」となり、東宮御所を与えられ、内廷皇族になる筈でした。
しかし、平成夫妻の意向によってご丁寧にも「秋篠宮」を残し、「皇嗣」という言葉を付け加えたのでした。
アンチがいうように、「皇嗣」というのは複数いる皇位継承者の筆頭にすぎないわけで、現在、実質的に皇位継承者が2人、しかも親子でしかいないのに「皇嗣」はおかしい筈。
額田を得ても男子をなせず、まだ彼女と弟の間に未練があるとしる天智天皇。
皇位は賢くかわいい大友皇子に継がせたいと考えます。
その為に十市皇女を正妃にして、二人の間に生まれた子供が天皇になってもいいと思っていた筈です。それまで自分は生きるつもりだったかもしれません。
しかし、早々と病気になり、亡くなる前に「皇位はお前にやる」と大海人皇子に告げます。
大海人皇子は断って出家して吉野にこもる。
大友と十市の間には葛野王が生まれており、葛野王が天皇になれば、大海人皇子にとっても孫ですし、何とか「和」が保たれていたかもしれません。
しかし、鸕野讃良皇女にとっては話は別。
彼女は絶対に草壁と皇位につけたい。その為には何が何でも夫に天皇になって貰いたい。
そんな女性の裏の心に引っ張られたのか、何なのか、壬申の乱がおこり大海人皇子が勝利し、天武天皇となります。
大友皇子は自害。
十市皇女と葛野王以下、天智側が天武側に引き取られたものの、肩身の狭い思いをして生きていました。
十市は特に大友皇子の正妃で葛野王の母ですから、旧天智天皇派からも狙われて、気が気でない日々を過ごしていたのです。
額田王はどっち側で暮らしても生き生きしているけど、十市はそうはいきません。
心配した天武天皇は十市を伊勢の斎宮にしようとします。
しかし、出立当日、亡くなってしまったのです。
持統天皇の時代、草壁の子である文武天皇への皇位継承で揉めた時、葛野王は「我が国は古来から長子相続でした」と意見しました。
この時の彼の思いはどんなだったでしょうね。
歴史が好き・・・という前提の徳仁天皇ですけど、当時、天武天皇の思いや天智天皇の思いをどこまで理解しているのかわかりません。
しかし、自分では「天智天皇」になりかけている事に気づいてはいないようです。
后の実家の勢力に加担して、自分の娘を天皇にしようとしている事自体、掟やぶりもそうだし、何より典範違反をしようとしているんです。
愛子内親王は大友皇子のように男子でもなく、賢くもなく、後継ぎもなせないでしょう。
そうなるとどうするか、令和の天皇は「聖武天皇」と同じ道をあゆむのでしょうか。
無理無理娘を天皇にして、その結果皇統の危機を招き、娘の人生をめちゃくちゃにしてしまう。
皇嗣殿下が「皇太弟」殿下としていたなら、今のマスコミのごときひどい誹謗中傷はなかったかもしれません。
天智天皇としての功績は多々あります。戸籍を作ったり水時計を作ったり。
でも、最も大事な「皇位継承」に関しては掟破りで墓穴を掘ったなと。
壬申の乱を単に「弟が兄を殺す」話として受け取っているだろう令和の天皇からすれば、まさに恐ろしい話だと思います。