ふぶきの部屋

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国内が内乱状態の時に女帝が立つ

2024-01-27 07:00:00 | 皇室報道

 今年の9月6日に悠仁親王殿下は18歳になり、成人あそばされます。

受験の為成年の儀である「加冠の儀」や記者会見は翌年の3月以降になるでしょうけど。

でも、18歳になるんです。

今の皇室を見る限り、非常に人手不足ですから悠仁親王も受験が終わり次第、公務や祭祀に力を入れられる・・というか、そうせざるを得ない状態になります。

そいう事を受けて、いわゆる「愛子内親王を天皇に」という一派の秋篠宮家への誹謗中傷が本当にひどい事になっており、皇室の「こ」の字も知らないくせに、「愛子様が天皇になるべき」と堂々と言うんだからもう馬鹿というかアホというか。

理が通らない。彼らの武器は同じ事を100回、1000回積み重ねて「事実」にする事。

小和田雅子さんの「皇太子妃決定」のあの日から、「寝耳に水」な出来事は全て、消えたように見せかけても復活させて、連呼した結果と言えるでしょう。

 なぜ女性には皇位継承権がないの?

あのね、それは2000年に渡って来た「伝統」だからだよ。その質問は「なぜ伊勢神宮は今も古代と同じ祭祀をしているの」「なぜ伊勢神宮は式年遷宮するの」と聞いているのと同じで、全部それは「神様が決めた伝統」だからと答えるしかないんです。

 男女平等の令和にそぐわない?

皇室と世俗を一緒に考えてはいけません。

皇室における祭祀、伝統の全ては「変わってはならない不文律」であり、それを守る事が皇室という存在意義を保つことになります。

外国の皇室・王室は全て「武力」によって政権を取り、自らを神聖化したものですが、日本の皇室は「祭祀」を中心に据えて国民の統合を図る為にその制度が出来たもの。

2000年も男系で繋いで来た歴史があるから世界一古い家柄であり、世界の王から一目置かれる存在なのです。

 昔は女帝がいたでしょう

そうだね。でも「女帝」が立つ裏には必ず政治的陰謀による、国内の乱というものがあります。なぜなら好きで女帝を立てている訳ではなく、「女帝を立てざるを得ない状況」を作り出していたからです。

 推古天皇

父は欽明天皇

男系女子。母は蘇我氏。敏達天皇の后 

敏達天皇亡きあと、弟の用明天皇になりますが、彼が早死にしてしまいます。

用明の長男、厩戸皇子は若すぎる。

そこで皇位継承問題が起き、蘇我氏と物部氏の間で争いが起き、その間、皇位継承権を主張する皇子が次々殺され、乱の中で敏達天皇と推古天皇の長男、竹田王子も亡くなります。

ここで突如、皇位継承に遠かった崇峻天皇が立ちますが、蘇我氏とうまくいかず暗殺。

「一番后歴が長くてカリスマ性のある額田部皇女様を天皇にしよう」という事になります。

つまり蘇我氏によって建てられた女帝ですが、蘇我氏の傀儡女帝とも言えましょうか。

女帝亡きあと、田村皇子VS山背大兄皇子になった時、蘇我氏は田村皇子を立て、厩戸皇子家は亡びます。

 

 皇極天皇・斉明天皇

男系女子ではありますが決して高い身分の姫ではなく、舒明天皇の后になる前に結婚歴あり。

舒明天皇亡きあと、本来は長男の中大兄皇子が天皇になる筈が、彼はわざわざ母親を立てて自分は太子どまり。人望がなかったのと実の妹とのスキャンダルが原因?

息子にいわれて皇位についたけど、乙巳の変が起きて蘇我氏が滅び、中臣鎌足と息子に嫌気がさして退位。その後は、毒にも薬にもならぬ孝徳天皇(皇極天皇の弟)を天皇にした中大兄皇子。后には自分と関係のある実妹を入れ、そして天皇を徹底無視。

孝徳天皇も長男有間皇子も亡くなり、そこでも「母上、お願い」と言われて母が斉明天皇として再び即位。

でも、息子の言うままに一か所に落ち着かずあっちこっち旅をする羽目に。

朝鮮好きな中大兄皇子は百済を応援して白村江の戦いに参戦するも破れて、下手したら中国が攻めて来るかもと重大事を引き起こす。

動く度に宮を作るから「建築天皇」みたいな名前がついて、最後は朝倉橘広宮で死去。

最初から最後まで息子に利用された人生でした。

 

 持統天皇

男系女子、天智天皇の娘、母は蘇我氏。実姉と共に天武天皇の妻になる。

蘇我氏の流れなのに父に蘇我氏を滅ぼされ、結婚しても側室やお姉ちゃんにばかり子供が出来てイライラしどうし。

やっと出来た草壁皇子の地位を盤石にする為、吉野山まで行って、天智や天武の子供達に「吉野の誓い」をさせて、何が何でも草壁を皇位に着けようとする。

が、天武天皇がなくなり、いざ草壁・・と思っても草壁は身体が弱くまだ若い。同じ若くても甥の大津皇子の方が人望あり。さらに年長者に高市皇子など大勢の男子がいて、このままじゃ危ないと思い、甥を殺したら息子も病気で亡くなる。

それでもめげずに、孫の軽皇子に皇位を譲る為に自ら皇位に付き、初めて「皇太子」として孫を周囲に認めさせる。

「男系男子が沢山いるのに何で女帝なんか」と言われつつも、陰の功労者である高市皇子の力を借りて政治を行い、藤原不比等を重用。

火葬された初めての天皇であり、その墓は、墓荒らしに荒らされるという珍しい天皇。

 

 元明天皇

父は天智天皇にして草壁の妻。息子の文武天皇が早死にしてしまい、その子、後の聖武天皇に皇位を継ぐ為に一時的に天皇となる。

聖武天皇の母は藤原宮子という女性で、海女だったという説がある。どちらにせよ家柄的にはよくない。しかも精神を患い、子育て放棄。聖武天皇は藤原不比等によって育てられ、妻も光明皇后というめちゃくちゃ藤原氏繋がり。

それをあまり快く思わなかった元明天皇は、あえて皇位を娘の元正天皇に継がせ、聖武天皇の即位を遅らせようとしたのではないかと。

 元正天皇

男系女子。父は草壁、母は元明。

ここに「母」でもなく「妻」でもない女帝が誕生。

未婚の女帝は一生独身でいる事が決まり。

その理由は「女帝はいずれ男系男子につなぐ為の応急措置でもあるので、もし女帝が結婚して出産などしたら皇位継承争いが吹き荒れることになるから」

恐らく、聖武天皇の後ろ盾である藤原不比等の考えではないかと思われます。

 

 孝謙天皇・称徳天皇

聖武天皇の長女。弟が早く亡くなった。聖武天皇には安積親王という皇位継承に足る男子がいたにも関わらず、不比等が後ろ盾にならず、しかも謎の死を遂げ、ほぼ無理やり「女性皇太子」にされる。

聖武天皇はコンプレックスを持っていました。

母の身分が低い事とと妻がいわゆる「民間妃」だった事です。

一方、叔母さんの吉備内親王が嫁いだ長屋王は両親共に皇族で妻も内親王。血筋がぴか一で子沢山。藤原氏もそれはわかっていたから、安積親王の次に長屋王一家を殺しました。

そして民間妃を史上初の「皇后」にして、皇后専用の職まで作る。

孝謙天皇はいわゆる藤原仲麻呂と組んで「敵になりそうな人をどんどん排除」していきました。

即位と同時に皇太子に決定してた道祖王を廃し、大炊王にし、それに反対した人達を粛正。

自分の姉達一家も皇族の身分を取り上げ、殺す。

やっとのことで淳仁天皇に譲位したかと思えば、「上皇様、恋愛はほどほどに」と言ったのが気に入らなくて淳仁を廃し、自ら称徳天皇に返り咲き、さらに父の遺言

「お前が誰を天皇にしても構わない」を拡大解釈して道鏡に皇位を譲ろうとする。

あと一歩の所でそれは阻止されたけど、最終的に「女帝はこりごり」となりました。

 平安時代から徳川時代まで女帝が消滅したのはなぜ?

称徳天皇の「道鏡を天皇に」が最も大きい事でしよう。今でいうなら愛子内親王を天皇にして、その夫が天皇になるようなもの。

散々、「可哀想な独身女帝」と思って見逃して来たし、藤原氏の絶大な権力で好き勝手やって来たけど、「いい加減にしろよ」となったんですね。

で、藤原氏による「摂関政治」の間は、内親王はほとんと結婚せず、降嫁も少なく、実権は藤原の娘にとって代わりましたし、男子が生まれれば生まれたばかりだろうと東宮にして、天皇にしてしまえば皇位は安泰、藤原氏も安泰という事で、女帝を立てる必要性がありませんでした。

鎌倉以降は、天皇家、公家が貧乏になってしまうので、女帝もへったくれもありません。

 

 明正天皇

父は後水尾天皇、母は徳川和子。

後水尾天皇と徳川家は仲が悪かったです。

紫衣事件が起こり、天皇の意を徳川が真っ向から否定。しかも「禁中並びに公家諸法度」などが出来て、天皇として「無礼なっ!」ってところ。

しかも秀忠の娘、和子の入内により、最愛の女官と無理やり別れさせらた。

その復讐となばかり、後水尾天皇は突如退位し、和子との間に出来た興子内親王に皇位を譲ってしまいました。

「徳川の娘が天皇になったんだからいいだろっ!」って事です。

その結果、明正天皇は僅か7歳で即位して後、21歳まで天皇に。

その間、父上皇が院政を敷き、また徳川の血筋という事で警戒もされた気の毒な天皇。

 

 後桜町天皇

父は桜町天皇。この頃になると皇室では、天皇の子として生まれても、必ずしも皇族に列せられるとは限らなくなっていました。

理由はお金がないからです。

長男・長女はともかく、その下に生まれると「親王宣下」せずに寺に入れられるとか、内親王宣下を受けず一生独身とかいうケースも多かったのです。

この後桜町天皇も内親王宣下を受けたのは11歳の時でした。

また男子が早死にするケースも増えて、皇位継承者問題がすぐ手が届く所に迫っていました。

後桜町天皇は、弟の桃園天皇に「東宮(後桃園天皇)が大きくなるまで即位して下さい」と請われて天皇になりました。

女帝というのは、歴史的に見ても国内が不穏な時に誕生するか、政治家の傀儡として存在するか、そして純粋に皇位継承者がない場合に臨時的措置として存在するかしかありません。

明治の皇室典範を作る時に、「イギリスにビクトリア女王がいるから日本も女帝をOKすべきだろう」という意見もあったのです。

けれど、伊藤博文らが真剣に日本の皇室史を紐解き、「女帝が誕生すると、外戚が強力な権力を得ることになりかねない」と結論づけ、あえて「男系男子」だけに皇位継承権を与えることにしたのです。

愛子内親王を天皇にした人達の後ろには小和田家がいることがはっきりしています。

Xにはすごい投稿もありましたよ。

愛子内親王が天皇になれなかったら、中国がどんな手に出るかわからないぞ」と。

喉から手が出る程欲しい「皇」の権威。

親中派による天皇擁立が成功すれば、日本侵略も遠くないって事ですよね。

 

こんな風に歴史を説いても、それでも「愛子様を天皇に」は変わらないんでしょうね。

 

コメント (6)
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