ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

悠仁親王誕生への道   9

2024-09-02 07:00:00 | 皇室報道

 紀子妃誕生の衝撃

昭和64年の10月から始まったいわゆる「自粛期間」を経て、2月には大葬の礼があり、日本人はまだまだ昭和を引きずっていた。

しかし、8月。突如情報が入ってきた。

「礼宮様婚約だって!」世の中、浩宮の結婚がいつかと盛り上がっている時にまさかの礼宮婚約のニュースに私はびっくりした。

その理由は、ちょうど私も平成元年に結婚を予定しており、夫が独身の兄より先に結婚するという事で、かなり郡山宮夫妻から色々言われていたからだ。

そんな思いをしていた人は結構多く、「皇室が兄より弟が先に結婚する事を認めるならいいんじゃないか」というムードがあったのは確か。

父と学習院キャンパスを歩く無音の川嶋紀子嬢は、「まだこの世の中にこんなお嬢様がいたのかしら」と思う程清楚で可愛らしかった。

礼宮に付き合っている女性がいるというのは、写真週刊誌で見た事があるけど、顔まではわからなかったし、誰も実現するとは思わなかったのだ。

でも私は、「二人の共通点」に納得してしまった。

 二人とも学習院出身

 共通の知り合いが多い

という理想的な恋人同士だったから。

記者会見を見て、見つめ合う二人に「ご馳走様でした」としかいいようがなく、ぴったりと息があった雰囲気も好感を持って迎えられた。

勿論、常盤会は大喜びで「さすが礼宮様」と持ち上げたし、紀子さんが会津藩士の血を引くと言う事で、秩父宮妃が大層気に入られた。

まるで皇室入りする為に生まれてきたような女性だった。

毎日が「紀子ちゃんブーム」で執拗に追いかけまわすマスコミにも決して挨拶と笑顔を忘れず、その明るい笑顔に癒された。

趣味はマンドリン、そして手話。将来、福祉の仕事に興味を持っているという点、結婚しても大学院で勉強を続けるという所もいかにも皇族っぽかった。

しかし、それゆえにバッシングもこの頃から始まっていた。

 昭和天皇の喪中での発表だったこと

 学生結婚であること

この2点をバッシングの材料として叩く人が多く、皇后も最初は「長幼の序がある」と結婚には反対していたと言われた。

そのせいなのか、二人に与えられた新居は築40年の狭い狭い職員宿舎。

結婚により、秋篠宮家が創設され筆頭宮家となった。

最初は「次男坊殿下の嫁」という扱いでしか見ていなかった人達も、紀子妃が即位の大礼に出席した時、そのあふれる気品に驚いたのではないか。

平成2年11月。世界中の王族や要人を迎えて盛大な即位の礼が行われる。

この時、皇后の真後ろ、つまり空席である皇太子妃の位置を歩いたのが紀子妃だった。

結婚の儀の時も平安時代から抜け出したように美しかったが即位の礼では尚一層、タイムスリップして来たかのような美しさや品格がそこにあった。

 

秋篠宮家には公務が殺到し、どんな時も笑顔を絶やさず、公務に励んだ。

秋篠宮最愛の妹、紀宮とも実の姉妹のように仲がよく、一対の絵のようだった。

私は紀子妃が秋篠宮妃になった事こそが運命ではないかと思う。

 後に秋篠宮が総裁となる済生会病院で誕生

 本物の帰国子女

 学習院育ち

単純な恋愛物語では済まされない運命の導きというか、秋篠宮の目の確かさ、判断力が素晴らしかったと思う。

秋篠宮のライフワークは生物学だが、一方で日本全国の伝統やしきたりを見て回る事もその一つで、そのサークルにさっさと入れて価値観の共有に励んだ。

両親に会わせて、皇族の暮らしがどんなものか見せる。

昭和天皇に報告し、「ヒオウギアヤメ」をお印にと決める。

そして学生結婚に至った理由は、単に兄がなかなか結婚しないという事だけではなく、「川嶋紀子さんこそ皇太子妃にふさわしいのではないか」という意見が出始めたからだ。

浩宮や礼宮の教育係だった浜尾氏やマスコミによく出演していた篠沢教授なども紀子嬢を買っていたから、ここで横やりを入れられたら終わりである。

川嶋家の回りがマスコミで煩くなり始めた時、スキャンダルになる前に、さっさと結婚してしまったというわけだ。

単に恋愛というより、「妃」としての資質を第三者的に見ていたのではないか。

川嶋家は和歌山県の名家であり、父方の祖母は会津出身だ。

紀子妃は結婚した当初から、秋篠宮より一歩下がってなるべく自分の意見は言わない様に務めていたし、父の教え通り「オールウェイズスマイル」で押し通した。

でも、一方では相当頑固な所があると思っている。

我慢強いというか、唇をきゅっと結んで耐えるという感じ。

公の場面では決して出すぎず、家庭内では結構強い。その証拠に秋篠宮は結婚してから煙草を止め、酒量も減った。「家内がいうので」と。

導火線の短い宮と、真一文字の紀子妃はまさに割れ鍋に綴じ蓋。

 

1994年には、秩父宮勢津子妃から「結核予防会」名誉総裁の座を受け継ぐ。

美智子妃誕生の時は反対だった勢津子妃が、心から紀子妃を受け入れ、大喜びだった事を思うと、皇后の胸中を慮ってしまう。

勢津子妃は秋篠宮家が職員宿舎に住んでいる事にも心を痛め、「自分が亡くなったら秩父宮邸を託したい」と遺言を残された。

もしそれがなかったら、今も職員宿舎だったかもしれない。

1991年、眞子内親王誕生

1994年 佳子内親王誕生

結婚翌年に内親王にも恵まれ、この調子いけば親王が生まれるのも近いかもと誰もが考える。

そういう意味では、紀子妃の誕生は「皇太子妃」のハードルをかなり上げてしまった。

紀子妃より、美しく、賢く、社交的で子宝に恵まれる人でないと・・・・

 

ところが、皇后や皇太子は「紀子妃より学歴があって、語学力があって社会経験がある」人と勘違いしたのである。

 

 うごめく秋篠宮家への誹謗中傷

それは結婚直後から始まった。噂の元凶はおおよそ予測通りだ。

彼らには秋篠宮家を貶めなくてはいけない理由があった。

それは、皇太子妃になる女性の正当性を高める為だった。

それ程に紀子妃の存在は彼らにとって脅威である

 財産家でない事を貶める

紀子妃は学習院の官舎に住んでいて、学問中心の生活を送ってきた。

例えば美智子妃が皇室入りしてから、彼女の為に正田家は服飾費などの援助をしてたと言われるが、川嶋家はそのような事はなかった。

それゆえに週刊誌に「手袋の値段まで・・美智子さまのため息」と週刊誌に載った。

要はお金のない川嶋家に援助をしてた皇后だったが、まさかドレスの手袋代まで請求されるなんて・・というお話だった。

因縁のように出て来る「手袋」だったが、果たして皇后は本当にため息をついたのかどうか。

当時、背が高い秋篠宮と紀子妃の十二単は新潮すると発表された。また、納采の儀で渡される絹織物は、ローブデコルテやその他の服を仕立てるのにつかわれる。恐らくは全て皇后に伺いを立てた上で服も決まっていたろうから、その請求書が直接皇后に渡る筈はないのだが。

皇族の結婚については宮内庁の予算内で行っている筈なのだ。

けれど、新婚早々このような記事を書かれて川嶋家は驚いたろうし、傷ついただろう。

 堕胎説

これは、本当に広く日本に都市伝説となって結婚するまえから広がった噂で、本気にしている人も多かった。

要は、秋篠宮の子を身ごもった紀子嬢が一度堕胎した事があり、それに怒った川嶋家が皇居に怒鳴り込んで結婚をさせたというもの。

いくらそのような事はないといっても、あるあると噂は広がり、川嶋家では一旦はそのような事はないと言ったものの、その後は沈黙した。

川嶋教授曰く「一つ否定すると、次もまた否定しなくてはならずきりがないので、黙っている

自分に非がないのであれば、必ず報われる筈という、何とも学者的な意見。

しかし、その態度こそが、後に眞子内親王をPTSDにしてしまったと思うと、私は「徹底的に元凶を探して潰す必要があったのではないか」と思う。

どんなことを言われても聞かなかった振りをする事は大人なら出来るが、感受性の強い子供にそれを強いるのは酷だし、人間不信を招くと思う。

また、この「怒鳴り込み」は実は小和田家のスライドではないかと今は言われている。

 

 秋篠宮 タイに愛人説

秋篠宮とタイという国の繋がりの深さは、先王ラーマ9世の時に確立した。

ナマズなどの研究の為に度々タイを訪れ、その時に王室と親しくなった。

私が新婚旅行でタイへ行った時も、ガイドさんが「礼宮様はタイの人だと思われている」と言う程の人気者。

一方で現在の国王は皇太子だったけれど、父親からあまり愛されていないようだった。

賢くて親しみのある宮を「実の息子のように」可愛がっていたと言われる。

通常、皇族の結婚式に外国人は招かないが、特別にタイのシリントン王女が出席。

シリントン王女は何度も来日歴があり、当時の皇太子より国民に敬愛されていた。ゆえに国王は法を改正し、シリントン王女にも王位継承権を与えた。

1992年には紀子妃も一緒にタイに旅行。

そこからの「タイに愛人がいて子供もいる」と週刊誌に載ったのだ。

秋篠宮は「火のない所に煙がたった」と怒り心頭だったが、週刊誌はこの話題を長きに渡って広めた。

それだけではない。

秋篠宮がタイの大学から名誉博士号を受けると、その大学を「馬鹿な大学」と貶め、天皇の許しを得て研究の為に海外へ行き、晩さん会に出ないと「いかがなものか」とケチをつける始末。

 

秋篠宮が持っている役職は20個にも及び、外国からの勲章は7カ国に及び、

名誉博士号は11個になる。

紀子妃も役職は8つ、海外からの勲章は6カ国、翻訳本は5冊、博士号所持。

 

単純に頭がいいとか、語学が出来るというのではなく、一つの研究をずっと続けるという非常に息の長い学問生活を送っていたからこその今だ。

眞子内親王も佳子内親王も、そして悠仁親王も両親の薫陶を受けて、学問の道を進んでいる。

 

コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする